ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

友人の訃報

友人の訃報を知った。
FBで奥様が書き込まれていた。
亡くなったのは10日ほど前。
ちょうど一週間前くらいか、どうしているかなと思っていた時だった。
彼は勉強会でよくあい、喋り、笑う人だった。
私と同じ歳の彼は何を思い亡くなっていったのだろう。
死因は明記されていなかったが、突然死のような印象を受けるFBの投稿だった。

しばらく会っていない人やそのご家族の訃報さえ、辛く感じるこの頃だ。
死は、実はとても近くにある。
当たり前に皆死んでいくのに、なぜこうもショックを受けてしまうのだろう。

ちょうどまた田坂広志さんの「私は存在しない」を読んでいたところだった。
人は亡くなると自我意識は現実世界からゼロ・ポイント・フィールドに移るという。
そして恐怖や不安がなくなり、徐々に「自我(エゴ)」が消えていく、そうだ。

それを聞くと少し安心する。
変容するということなのだろう。体を持つ身には、どうしてもエゴが付きまとう。それが人間らしさでもあるのだろうが、体がなくなれば、魂は変容していく。(多分)
宗教思想にもこのような考え方はあるようで、私はそうだといいなと思っている。

生まれ変わりをいくらしてきたかわからないけど、
記憶がないのでまだこの身で死を経験していないのでわからない。
ただ、人間としての生に執着はあるから、簡単に経験したくはないとも思う。
とはいえ、自分では選べないのが死の時期だ。

そして自分もそうだけど、死を受け止める周りの役割になった時には、自分がどうなるのかわからない。
今でさえ、こんな鬱状態であるのに、大切な人の死を受け入れることはできるのだろうか?受け入れるしかないのだろうけど。
何度も家族や親戚を見送ってきたけど、慣れない自分がいる。
心がどこかに飛んでいったように、淡々とする自分と悲しくて張り裂けそうな思いとが交差する。あの経験はしたくない。でも必ず訪れることだ。
覚悟なんてできない。