ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

死に対しての恐れ 2020.0510

皆さんは、死ぬことが怖くないですか?

私は、怖いんです。
特にコロナが猛威を振るいだして、ある一部の人は急激に呼吸困難になって亡くなってしまう、そんな事例がテレビでもよく取り上げられている中、
私がそういう状態になったら、死に切れるのだろうか?

もちろん、動物的に体が使い物にならなくなれば、死ぬのは当たり前のこと。
そうなった時に、私の精神は、ちゃんと死ねるのだろうかと思ったのです。

未練とか怒りとか、寂しさとか残しそうだなーって。

ちょうど、巡禮記のオンラインおはなし会がはじまるということで、質問を募集していたので、質問を投げてみました。

『質問は、「私って、死がとても怖いんです。」です。
何年巡禮記にきてるのよ。って言われそうですが、
このコロナ騒動で、あっけなく多くの方がなくなっていく中、
私はまだやり残してる(達成したいのにできてない)ことがあって、
どうにも心穏やかに過ごせません。

死ぬか死なないかで、色々考えればいいという人の記事(注:血液の
がんの告知をされた幡野広志さんが、判断する時に「これをしたら死ぬか死なないか」
という基準で行うというのを読んで。)
を読んだんですが、
父だって呆気なく若くして亡くなってしまったことを思うと、
どうやっても開き直りができないのが悩みです。』

実はこの文を書いて送った瞬間に、結構楽になった感があったのでした。

ああ、いろいろ報道を見て、「コロナ怖い、対処どうすれば」ってのに追われて、
自分の気持ちがもやもやしていることには気付いていたけど、なぜもやもやしてるのかに気づけてなかったんですね。
この時も「これが聞きたい」って思っていなかったのに、
お話会に参加を決めて、質問書かなきゃと思ったときに、
ふっと出てきた言葉たち。
そしてそれを言葉という形にしながら、ああ、私は幡野さんの言葉にも納得していないし、それは父や親族たちの死が受け入れられていなかったからなんだと、
理解したのでした。

とはいえ、コロナは怖いし、死ぬと決まっていないけど、死なないとも限らない。
自分はこういうのに弱い方だと思うし、自信もない。

さて、先達さんから聞いたのは、以下のようなことでした。メモを見ながら書いてるけど、覚えているものとそうでないものがある。全部書いてみます。
・どの魂も今世の修行は「生きる」ということ。
・人は成仏しても、納得感があるかどうかはわからない。
・「死ぬ」ことはなくなってしまうことではない。
・自分は一人には絶対にならない。
・死んでからもすることはたくさんある。

・やり残したことがある人の手伝いをしたら、子孫を助けるスキルになる(誰が?)
・(亡くなった友人は)知恵を与えてもらって子どもたちのために働いている
・死ぬことに対してどんな怖さを抱いているのかを考えてみるといい。
例えば、
 ・存在があやふやになることのこわさ。
 ・今現在が、存在していてもいいのかという不安。

 ・自分が太刀打ちできない怖さ
 ・自分が対処できないことに対するこわさ

 ・病気になるかもという怖さ

 ・老いに対する怖さ
 ・やりたいことができない怖さ

 ・コロナにかかるかもという怖さ


・今は集合意識がそうなっているから、それにリンクしている可能性はある。集合意識は倍音でくる。

・まずは「こんなことに対処できない怖さを持ってます」と認知すること。持ってるんだなーとだけ思えばいい。

・何が怖いのかを書き出すことをしてみたらいい。
それに対して、具体的に対処するための
テンプレートを作っていく。
わからなかったら、みんなにきけばいい。

===
話を聞いていた時はなるほどと思っていたけど、
こうして文字に打つと、流れがわかんなくなってますね。
2週間置いてたからなぁ。

最初の方は、死んだらどうなるみたいな話で、
後半は、対処法。

何に怖さを感じているのかというのは、
上記とあんまり変わらないことなんだけども、
(もう少し細かく確認したほうがよいのかもしれない)
コロナに対しては、
私としては、今考えられるだけの対処はしているつもり。


そもそも自分がどうにか気持ちよく毎日生きることができるように、
ひたすら気をつけて生きているので、これ以上気を付けるのは難しい。
体を保つのにビタミン剤や漢方飲んだり、
食べ物飲み物、そういうのに気を遣えば使うほど疲弊するという健康のジレンマ。

でも他の人の対策を聞いていると、
ああこういう手もあるなと思ったり、
私はここまでしなくてもいいかなと思ったり、
自分の尺度もわかるのはいいな。

 

少し話が戻るけど、
一連の話を聞きながら、気づいたことは、
「私は父や祖父母やおじおばたちの死を、”無念の死”だと思っていた」ことでした。
さぞや、心残りだったろうとか、あれこれ残念だっただろうとか、
勝手に思ってしまっていたんですね。
それ、ほんとにそうなのか?と思うと、少し手放せそうな気がしました。
彼らの無念を私が勝手に感じなくてもよいのですよね。
毎日のお参りで、ご成仏に上がっていただき、私の手伝いをしてくださいってお願いしてるのでした。そうでした。

実際問題、いつお迎えが来るかはわからず、
ちゃんと終活して心のこりをなくして死ぬのが一番なのだろうけど、
そういう人生になるかどうかもわからない。

身辺整理(道具的な)ものもやればもう少しすっきりするのかな。
と思って、少し本棚は整理しました。
少しすっきり。
が、
抜本的対策が望まれます。

引っ越しが一番の整理だというのは、しみじみわかります。
もう20年近く分貯めこんでるからなぁ。

自粛生活も結構慣れてきて、
長く続く可能性もあるけれど、
うちは自分の体が変調しやすい体質であることと、
家族に基礎疾患者がいることがあるので、
基本はステイホームのスタンスで行きます。

マスクの意味を感じないとかいう人も周りにごろごろしているから、
飛沫を浴びないよう、健やかに暮らしたい。

いろんな人がいて、強い人は強い人の論理がある。
弱い人の論理はなかなか受け入れられないけど、
それを声高に言っても伝わらない。
伝えることに
パワーを使って疲弊しても意味がない。
大切な力は、自分が生きることに使いたい。


お話会であった話。
人は誰かのために生きている。喜んでほしいと思って生きている。
だから、自分が好きな人に、仏様に、神様に、先祖の人たちに、
自分が元気で笑っている姿をみせるんだ。
そう思って生きるといいよって。

そうだなと思います。

自分は誰かの祈りの結晶かもしれない。
少なくとも親や祖父母からはそう大事にされてきたんだよね。

存在していていいんだよって自分に言ってあげないとね。