お彼岸の入りだから。あるもので作ったおはぎ。
去年の11月くらいの事になるのですが、
書いていなかった気がするので、
今日書いておこうと思います。
私には幼馴染がいます。
物心がついてから、多分一番初めに認識した幼馴染。いつも遊んでいたMちゃん。
学年としては一つ上なので、私にとってはお姉ちゃん的な人でした。
3つ離れた弟たちは同じ学年なので、
家族ぐるみでお付き合いしていました。
母たちも2,3つ違いで、母がちょっと下という感じも同じ。
私が小2の頃、父の転勤で私はその生まれ育った土地を離れました。
が、うちは隣に祖父母の実家があったので、盆正月には帰省。
その度に尋ねて遊ぶというお付き合いが続きました。
その後、Mちゃんたち一家もお母さんの里の方に引っ越しをされました。
行き先は県外で、その後は文通で近況を伝え合うお付き合いに。
数年うちの長期休みに、父が思い立ったのでしょうか、
みなで車でMちゃん母の里を訪問。
初めて見る県外の田舎の風景でした。
そこは大きな旧家で、家の周りには小さな堀のような川が流れ、
その川も緑もとても美しい光景だったことを覚えています。
お天気がよかったこともあったのでしょう。
お庭はとても剪定が行き届き、広々としています。
大きな池には大きな鯉たちが泳いでいました。
(そこで写真を撮った記憶があるのですが、なぜかうちにはありません。
Mちゃんちのカメラで撮ったのかな。)
質素でもありながらとても品のある田舎の街並み。
そこではじめて紙芝居やさんを体験しました。
リヤカーでやってくる紙芝居やさん。
水あめを買い、その水あめを舐めながら紙芝居を見るのです。
(あれはよくよく考えてみると紙芝居屋さんではなく、水あめ屋さんだったんだろうなぁ。)
買い食いは嫌いなうちの母だったので、
この時は特別だったのかな。
2本の木箸には水あめがついています。
両方の手で木箸を2つに引き離しながら、うまくくるくると水あめを練り、
柔らかくして舐め、またくるくる回して食べやすいように練っちゃ食べる。
その体験が新鮮でした。だから今でもとても覚えているのだろうと思います。
食べながら何かを見るというのも初めての体験。
そしてその紙芝居やさんが来ると、周りからこどもたちがわらわら出てくるのが
とても興味深くて、その光景はいまだに覚えているのですが、
なんの紙芝居だったのか内容は全く覚えていないのでした笑
なんでこういう話を書いているかというと、
そのMちゃんから久しぶりに封書が届いたからです。
彼女とは、ずっと年賀状でのお付き合いです。
彼女は京都の方と結婚し、家族も増え、以来ずっと京都に住んでいます。
毎年「会いたいね」と言いながら、何十年も年賀状でお互いの近況をやり取り。
私は独身の頃、熊本に行く機会があり、
その頃熊本市内に一人で住んでいたMちゃんのおばちゃんを訪ねたことがあります。
なぜか一泊させてもらった気もします(ずうずうしい笑)。
おばちゃんと話がはずんで、ご飯作ってもらって泊まったりしたんだと思います。
私にとっては、小さい頃から優しくてなんでもぽんぽんいってくれるおばちゃんだから、全く気兼ねがなかったんでしょうね~😊
今振り返ると、あの頃は私が一番自由にふるまえていた時代だったのかもしれません。
20代かな。きっと大学時代。
それが出来たのは、当時からおばちゃんとも年賀状のやりとりをしていたからでした。
住所がわかっていたから行けたんですよね。多分。
毎年年賀状の内容も、マメによく書いてくれていました。
一昨年に、おばちゃんが80歳を越し、
「今年で年賀状をやめることにしました」という賀状がきたのですが、
「母のことや私たちの近況をお伝えもしたいので、こちらからはお送りさせてくださいね」と、私からは送らせてもらっていました。
そろそろ今年の年賀状もと考えるのが11月ごろ。
そんな時にMちゃんからの封書が届いたのです。
嫌な予感がしました。
その通りに、その手紙には、
おばちゃんがその年の1月半ばに倒れ、
そのまま意識が戻らず3月に亡くなったということが記されていました。
Mちゃんも、まだおばちゃんの死をうまく受け入れられていないことが察せられる、そんな文章でした。
一緒に喪中はがきが入っています。
おばちゃんの荷物を整理する中で、年賀状入れに私からの年賀状がずっと残されていたそうでした。子どもが小さな頃からの年賀状をずっととってくれていたそうです。
Mちゃんは、「母はみ。ちゃんからの年賀状がとても嬉しかったんだと思います。大事そうにとってありました」と書いてくれていました。
「それをみて、弟と一緒に泣きました」とも。
おばちゃんやMちゃん姉弟がそんな風に思ってくれていたなら、
それはとても嬉しいことです。
私はご縁をとても大事に思う方なので、
日常的には会えなくても、年賀状で一年に一度でも近況を報告しあう仲というのはあってもいいものだと思っています。
お互いにそう思いあわないことも多いので、徐々に年賀状の数は減っていますが。
こういうのはやっぱりご縁だなと思います。
私からのおばちゃんへの一方的な年賀状は、1回だけで終わってしまいました。
その年賀状を読んで、しまっておいてくれ、その後すぐに倒れてしまったんだなぁ。
Mちゃんからの手紙で知ったおばちゃんの訃報で、
私もいろんな昔のことを思い出していました。
Mちゃんもまだまだ自分の中で整理がつかない中、
この時期だからと、私が年賀状を書き送る前に、
頑張って喪中はがきを作り、私に手紙を書いてくれたのでしょう。
そういう区切りは、見送った人にとっては必要な節目になると思います。
一週間ほど、私も自分の気持ちを整理するのに時間をかけて、
いや、実際はMちゃんの手紙を読みながら、
私も自分の気持ちを整理するために手紙の返信を書きました。
手紙には私のことはFBでちょこちょこみているということも書かれていてびっくり。
私の(というか夫の姓)は珍しいので探しやすかったのかもしれません。
おそらく彼女が私の返信を受け取ったくらいに、
彼女からFBのお友達申請が入り、
彼女とFBとメッセンジャーでつながることができたのでした。
当時の私たちからすれば、こんな風につながり直すことができるなんて
驚きでしかありません。
年賀状も送りあってはいたけど、わざわざメッセンジャーで報告しあうこともなかったし、今がつながる機会だったのかもしれません。
その後はあの時はああだった、こうだったと話をしあっています。
その時一緒に居た人たちしかわからない、
一緒にいたからこそわかるなんてこともありますからね。
私も忘れていたこともあって、
もう40年以上前のことを今答え合わせできるみたいなことが面白おかしく感じています。
こんな話を、母とのオンライン面会でも話しています。
母は母で、私たちこどもとは違うことを思い出しているでしょう。
先日3月15日が、おばちゃんの命日、一周忌でした。
Mちゃんからもらった手紙にあった日付をカレンダーに書いていたので、
この日、私は私でうちの仏壇経由でおばちゃんを偲び、供養のお経をあげました。
Mちゃんと連絡を取ると、彼女のお宅でのお飾りの写真を送ってくれました。
ものすごくいい笑顔のお写真に涙が💦
こういう話をすることが、きっと亡くなった方の供養になるんだと私は信じています。
もう一つ信じているのは、
亡くなった方のことを思う時、天国のその方のところに花が降るという話🌹。
私はこの話がとても好き。
亡くなった方がお花で埋もれてひゃーって喜ぶくらいに思い出しちゃうぞと思っちゃいます💗
たくさん生きていると、関わった方のメモリアルDayも増えていきます。
これって産まれることも死ぬことも「生きる」ことなのだと学ばせられていると思うんですよね。
ということで、おばちゃんの死を通じてMちゃんとの再会のことでした。
何気ない話です。
でも私の心を揺さぶる出来事でした。
私は私らしく、こうしたいと思うことをしていきながら生きていく。