なんだかいろいろあって、整理が追い付かない。
世の中的にコロナで不穏な空気が蔓延している中、
それに起因したり、また増幅したりして、
嫌なことや悲しいことが目に入りやすくなっていることもあるのかもしれない。
6月に一人、8月に二人、親戚や親しい間柄の人が亡くなった。
全員コロナではない。
90代2人、80代1人なので、
寿命と言えばそう言えるのかもしれない。
ただ、人の命がなくなることは、老いも若いもない。
命の重さは変わらない。
3人の近しい関係の人の命がなくなったという事実は、私にショックを与える。
人は必ず死ぬ。
老いるほどにその可能性は高まる、気がするけれど、
肉体は必ず死ぬわけだから、一歩一歩みなその階段を上がっていっているだけ。
肉体のキープの限度があるから高齢になると、ちょっとしたことで死に直結しやすくなるのは当然だろう。
だけど、若くても、死なない可能性が減るわけではない気がする。
もちろん、若くてなくなる方は、全体からすると少数かもしれない。
でも数値が小さいからと言って、それが恐れるに足らないかというとそうでもないんじゃないか。
(死を恐れるかどうかという問題もあるけど、心の準備ができないことで考えると恐れてしまう、私の場合は。)
コロナ関係で、何パーセントだから大したことないみたいに言っている方がとても多くて、それは統計的にみたらそうなんだけど、
それが自分や自分の愛する人の身に起こった時に、そういいきれてしまうものなのかな。
確率が低くても、当たる人はいる。
宝くじと同じだ。
そう考えると、人生は賭けのようなものなのだろうか。
たまたま数日前に読んだ、京大生の闘病記が壮絶だったから余計に、
いろいろ考えてしまった。
「ヨシナシゴトの捌け口」(https://t.co/3lojG2KMRO)というブログ。これは、京都大学に入学した山口雄也さんが、日々を書きつづろうと1学年の夏に開設したものです。しかし、数カ月後、彼はがんの発症を告知されます。
— 東洋経済オンライン (@Toyokeizai) August 18, 2021
結果、図らずも闘病の記録となったブログの今とは?
https://t.co/6dyCOZmN8X
人と比べると、全くもって光明はみえない。
生きることにどう折り合いをつけるのか、
それを終わらせることにどう折り合いをつけるのか、
いつ何時、強制終了するかわからないこの体を、
どんな風に慈しめばいいのだろう。
思いがぐちゃぐちゃになっている。
ぐちゃぐちゃなまま、死にたくはないなと思っている。
でも、死はいつ来るかわからないからね。
父が突然亡くなった時のことを思い出している。
もう今の私よりも随分年下になってしまった父のことを思う。
昨日亡くなったのが、父と同い年のいとこのおじさんだったからかな。
生きているから、ご飯がおいしく食べられる。
さて、今日もご飯作ってこようかな。
消化不良の投稿を読んでくださってどうもありがとう。
オチがなくてごめんなさい。