ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

正義が負けた日 2019.12.08

中村哲さんが亡くなった。

アフガニスタンで、井戸を掘ったり用水路を作ったりして支援をしていらっしゃるお医者さん。福岡出身の方。
私の中では、そのくらいの位置づけだった方。

もちろん、そのことは凄いことだと思っていた。
福岡の方なので、周りにも中村さんのことを知る方は多い。
講演を聞いたという方の話も聞く。
だから、自発的に情報を入れるわけではないが、
なんとなく活動のことは知っていたくらいのことである。

彼の活動は、私にとって少し気になるものではあったが、
私の中でなぜか敢えてそこには触れないほうがいい、というような部分があって、
意識的に見ないようなところがあった。

が、夕方のテレビで見た、砲弾のニュース。
その時には命には別状がないという知らせだった。
それでも、その衝撃は私にとってかなり大きかったのに、
次にPCを開くと亡くなったという知らせ。
私の心は再び大きく揺れた。

中村さんの活動がとてもよくわかる動画。3年前のNHKもの。


武器ではなく命の水を 医師中村哲とアフガニスタン


一つ一つの言葉が沁みる。

で、なぜここにきて、私はこうも動揺するのだろうか?と考えた。

おそらく私の中の何かが呼応しているからだというのは大いに想像できる。

しばらく考えてみて、
いくつか思い当たるものがあった。

彼の思いは、私の持つ思いに非常によく似ていること。
と言っても私は、彼のようなことはできないけれど、
彼が思いをはせる、彼がやっている行動を思うに、こう思ったからだろうと思うその思いにかなり共感してしまうからだ。
医者として現地で対応していくも、問題解決にならない状態。


「基礎に栄養状態が良くないというのがあります。それから衛生状態が良くないと。水で洗うだけでかなり良くなるんですが。水そのものが欠乏している。」



そこまでわかっているのに、どうにもできない。
ならば、水をどうにかしよう。

その分野には素人の医者が、自分の専門の白衣を脱ぎ、水の工面に立ち上がる。
彼にとっては、医療と水はつながっている。

そういう思いのはせ方、すごくよくわかってしまう。
というより、同調してしまうというのが的確か。

そして、彼の行い、それは大いなる正義のように思える。
現に、彼が作った井戸や用水路のおかげで、
砂漠は田畑やオアシスと化した。
アフガニスタン国内外にも知られる英雄。
そんな彼が、銃弾を浴びて殺害された。
大いなる正義が、何かの思惑によって命を奪われた。

そこに怒りというよりも、あっけにとられた。
大いなる正義さえも、ちょっとした悪には負けるのかと。呆然となった。
あれだけの小さな積み重ねと努力で作り上げられたものが、
それをなし得た素晴らしい人が、
悪の前には倒れてしまう。
当たり前なのかもしれないけれど、
善から成り立っている大いなる正義は、
尊く、何者からも奪われないと私は思っていた。
実際もって、悪は人を殺しても、
その人の偉業までは奪えないことはわかっているが、
それでも中村さんという生身の人は亡くなってしまった。
そして、彼を亡くしたことにより、
また進んでいた計画も進まなくなるのは当然だろう。
そこでまた新しい何かも始まるのだろうけれど。

正義が負ける。
そのことは、大きくショックだった。

そして、このところ、また「死」というワードが気になって仕方がないのだ。
そしてそれを、なかなか肯定できない自分がいるのだ。
だから、中村さんの死は、自分に沁みた。
私にとって正義の塊である中村さんが悪によって倒れてしまったことは、
より善く生きていくための拠り所のような「正義」が負けてしまうという事実に
正義を否定されたような、そんな無力感を感じてしまったのだった。

何を頼りに生きていけばいいのだろう。

誰かのために、みんなによかれと思う行動さえも、
阻まれてしまうのなら、なにをもって生きていけばよいのだろうか。


誰かが書かれていた。
きっと中村さんは、「そんなに彼らのことを叩かないでやってくださいよ」的なことを言ってると思う、と。
それは正しいようにも思った。
犯人を恨むようなつもりはないし、そういう感情も出ては来ていない。怒りもない。
ただ、正義が、あれだけの大きな幸せが、一握りの悪によってつぶされてもいいのか?それに対しての憤りは大きくある。

悪でさえも、悪だからと排除せずに愛すことが必要なのだろう。
あるがままを受け入れることが人生においての修行であると、
それはそうだと思うけれど、なかなかにそう達観もできない状況の私である。