前の投稿から120日も経っていました。
まあ、状況も環境も変わり、やることも多くて、「自分の気持ちを言葉で整理する時間が皆無になった」というこの期間。
それでおかしくなりそうにもなったけど、とにかくいろんなことを処理すること、そのための時間を作ることに必死でした。
夫が亡くなってから忌明け、相続あたりがやっとおちついたのが5月6月。
4月から新しい仕事や体制になって、
それまでに家のことや諸手続きをしながら、勉強や準備に目の回るような。
そうそう、その間にBTSの日本公演の抽選申込と落選、
というループで感情も忙しかったのでした。
結局お席は準備されず、
配信や映画館でのライブビューイングでどうにか憂さを晴らす日々。
その間に、息子が沼に入ってくれて、
アミ活が一緒にできるようになるという嬉しい副産物は生まれました。
これが一番の収穫かもしれない。
本格的に仕事をしていくためにAIにも課金。
しかし、なかなか育ってくれず、私の仕事を楽にする以上に、
新入社員を教育する上司みたいな状況が生まれ、
「私は今なんのためにAIを使っているの?」という、
AIに私の時間を溶かされる事案が生まれてしまい、
怒りとともにもう頼りにするものはなにもないんだーと落ち込むこともしばし。
人間関係よりも楽な部分は大きくて、
AIの可能性には期待していただけに、
その思い違いには自分自身ショックが大きかったです。
それでもまあ頭を使わずに済む処理はしてくれるので、そこは助かる。
そういう風に使い方を切り分けられるといいんだけど。
人間関係もちょっと、ってものもあって、
忙しいからほぼおざなりにはなってるんだけど、
それ以上に、「自分を大切にする」ことにもっとおざなりになっていることに気づき、
自己回復に力を入れようと思う今日のこの頃です。
3回ほど、寝込みました。
疲れです。
つい詰め込んじゃうから。それでなくても余裕がないのにね。
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最近、魂とか命とか人生とか残り時間とか、
そういうことをよく考えるようになりました。
パートナーの死というのは、肉親の死とはまた違います。
こんなに違うとは思いもしませんでした。
関係性で変わるとも思いますし、
それぞれの価値観でも違いもあるとは思いますから、
あくまでも「私比」ではあります。
夫は生活や人生を共にする人だったのが、
居なくなって、物理的にはもうその前から私が担っていたから
あまり変わらないのかと思っていましたが、
存在が、この世から居なくなることが
こんなに私に衝撃を与えるとは思っていませんでした。
言葉になかなかなりませんが、身体が反応しているので
何らか右脳的なものが感じているのでしょう。
仕事も同時進行で進まないといけないこともあって、
時間が有限な中、どうしても食事や睡眠、生活の時間を縮小し、仕事に振らざるを得ないこともあります。
そうすると、敏感な右脳や感覚系が死んでいきます。
死ぬわけではないけど、
「感じない」ことを選ぶのか左脳が指示するのかわかりませんが、
そういう状態になると、自分の身体が悲鳴を上げていることすらわからなくなってくる。
そしていきなり身体からの強制終了が来ます。
これを何度も繰り返してしまう。
その理由のひとつは、「私はまだ何もなしえていない」みたいな切迫感。
人生の残り時間は私にももうそんなにないはずで、それが明日までなのかもう何年もあるのかもわからないけど、それでももう30年はないと思う。
あったとしても、今のようには動けない。
そうなったらその時に考えるしかないんだけど、
たくわえがあるわけでもなし、今の日本じゃ保障で生きていけるかどうかもわからない。
最低子どもたちに迷惑をかけないようにしたいと思うけど、
それもできるかどうかわからないんだよね。
お金は多くのものを解消してくれるけど、
富める者のところにしかお金はない。
とはいえ、キャリアを積めずにきた私が、今からそれを転換していけるか。
そうするしかないんだけど、そこは一人じゃほんとに難しくて。
組織に属せなかった私だから仕方ないんだけど。
今よりも貧富の差が激しかった時代には、
多くの人はもう死ぬのを待つしかなかったのだろうとも思う。
そこにあらがうのか、あきらめたほうがもっと気持ちよく生きられるのか。
生活するにはお金が必要で、それに執着するとうまく生きられないというジレンマ。
とはいえ、「生」を感じることはやりたくて、
今だから楽しめること、今精いっぱいやり切るということはね、大切にしたい。
それで、こどもたちとの旅行を計画している。
娘は結婚はしているがこどもはいない。
息子も数年後には家を出る予定。おそらくその数年後には家族を作るのだろう、いやその前の可能性も。
そうなったら、やっぱり動きにくくなる。
家族が拡大していくとか、家族の世代が変わっていくことは否めないし、
でも、4人で家族でいたことは事実。それが一人かけても二人かけても事実は消えない。が、身体として心身健康であるうちに、楽しみたい思いはある。
最初に「なしえたことはない」と書いたが、私にとって家族を作り守ってきたことは唯一なし得たことかもしれない。母を看取ったことや叔父の身元保証をしてることもそうで、ああ、夫を看取ったこともそういう意味では「なしえたこと」だ。
人として、やるべきことをやってきたという自負はある。
でもそのために、自分の思いを犠牲にしてきた自覚もある。
なら、その重しがない今の状態で、「やりたい」を口にしてもいいんじゃ。
そういう思いでいる。
子らも賛同してくれていて、
「最初で最後かもしれない私が企画する家族旅行」を計画中。
いろんな外的環境の影響の不安もあるけど、
もうそこは強行突破する勢いで、今はいます。
そういうことでも考えないと、未来への楽しみがないのよ。
旅行と夫の一周忌までは、どうにかそういう気力で頑張るとして、
来年の楽しみは、バンタンの日本公演に当選することかな。