ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

自分に正直に生きた一日 2021.10.6

まだまだあっつい日々が続きますね。
10月って、衣替えの時期のめどだったのはもう遠い昔。
この暑さで冬物の制服なんか着れません💦

とかいいつつも、寒いのが苦手な私には、
暑い~💦とか言ってる方がまだ楽です。
今は夜も涼しくなってきたので、
過ごしやすくなってはきましたね。

うちのベランダでまだ頑張っているあさがおたち。
今年は、現時点で通算714輪。

一昨年が100いかず、去年が200ちょい位だったと思われるので、
今年の記録はこれまでにない記録。

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まあ収穫した種を全部蒔いたからというのはあります。
たくさん蒔けばたくさん咲く。
それから、夏に帰省をしていないので、
ちゃんと水やりができているというのも実はポイントなのかもしれません。
暑さとコロナ対策とで、ステイホームに拍車がかかった今年でしたが、
まあいいこともあるということです。
主体的に言えば、いいことを見出してるとも言えますね😊

今日は、1ケ月半強ぶりに母とオンライン面会、
約3ケ月ぶりにヨガでした。

母の施設は、陽性者が出ちゃったので、緊急体制に入り、
面会・オンライン面会ともに中止に。
それまでは宣言中でも、ワクチン2回接種2週間以降なら、
居室でフリーに会うこともできたはずなのですが、
さすがに施設内で陽性者が出てしまうと、そうも言ってられなかったのでしょう。
またグループ会社で運営されているので、
応援の人たちの出入りが多かったらしいと、
今日母から聞きました。
母からは「なにがあったの?」と聞かれました。

陽性者が出て、母たち入居者も全員PCRはしたというところまでは、
前回のオンライン面会時に聞いていたのですが、
それ以降入居者への説明がなかったようで。
施設側もそこまで気が回ってなかったのでしょう。
母が聞いていれば説明されたのかもしれませんけど💦

まあ、やっとオンラインも再開、明日は弟が対面面会に行くようで、
少しでも顔が見れるとほっとします。
アマゾンからちょこちょこ本の差し入れをしておきました。
今回は、この2冊。楽しんでくれてるようです。
特に白夜行はかなり分厚いらしくw「こんなに厚いのよ~」と画面に見せてくれました。
読み応えありそうで、よかったです。暇つぶしの神。

 


大変お久しぶりのヨガも、思う以上に体が動いて気持ちがよくて、ほっとしました。

右肩が痛くて通っている鍼きゅうの先生から、ヨガストップを言われてなくなくストップしていたのですが、言ったら怒られると思うけど再開しました。
肩よりも全身が滞る気がしたのと、
感覚的に自分で自分の気持ちいいように伸ばしたり動かしたりすることは、
自分の体の感覚を確認するためにも、今の私にはやっぱり必要な気がして。

まあ、今日は大変気持ちよく、でもやりながら「痛くなったらどうしよう」という不安を抱えながら、おそるおそる。
まあそういう気持ちにもなるよなぁと思いながら、
それでも週に1時間、自分の体を保つために時間を作ることの愛しさを感じています。
これを励みに頑張ろうという気持ちもでてくるので、
こちらの選択をして正解かな。

明日は筋肉痛でバキバキになっているかもしれないけど💦

自分に正直に生きる一日。今日はとても楽しく、前向きに過ごせました💓
いい日でした。

あ、新月だった~🌑 忘れてた!



美味しく食べる効用 2021.10.5

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今日はやたらと「おいしく食べよう」的な記事が目に入るので、
今日のテーマは「おいしく食べる効用」にしました。
が、なにを書くか今の時点で決めているわけではありません。
きっと書きながら出てくるだろうと信じていますw
今日は、そういう流れで何が出てくるのかな?を楽しむ日にしよう。そうしよう。

ここにも書いてきましたが、歯の調子が悪いので、
それこそおいしく食べるのに難儀しています。
歯を扱って思うのは、
「食べることは、歯だけでなく口全体を使う運動だ」ということ。
歯で噛んだりすりつぶしたりはもちろんですが、
上あごと舌でつぶしたり、食べ物を奥に運んだり、
口内全体で食べ物を飲み込みやすい形にしていったり。
運動だけでも、ざっとこのくらいはありますよね。
それから、歯で噛んで細かくしながら唾液と混ぜて、
消化しやすくして喉に送るというのもありますね。
その作業をしながらこれまた色んな部分で味わって楽しむわけです。
食べるって、なんて忙しいの💦

でも、逆に言うと、これだけ大変な作業を、一日3回きちんとやっていくことで、
私たちの体は健やかに維持されているんですよね。
口から食べるということは、私たちが思う以上に、重要なことなのだと思います。
だから、その作業をさぼらないように、口の中には美味しく食べていけるような仕掛けとして、味覚や触覚を敏感にさせているのかもしれません。

つまり、「おいしく食べること=必要な栄養素を口から体に運ぶための人体の工夫」といえるのではないでしょうか。
だっておいしくなかったら、楽しくないし毎日栄養補給するのめんどくさくなっちゃうかもって思いませんか?
「健康のために、毎日3回おいしくないものを食べましょう!」って言われても、
継続できる自信は、私にはありません。
そう考えると、人体って偉大ですね。ほんとによく考えられているものだと思います。

私は子どもの頃から、口の端が切れて口が開けられず、
ヤクルトとカステラが主食だった時を多く過ごしました。
先日も70過ぎた叔母から「あんたはよく食べられんで、紫の薬を口につけてたよね」といわれました💦
(紫の薬は口の端のただれにつけてたやつです。今なら「ハロウィンの仮装かよ」って感じになります。その頃は日本にはハロウィンという言葉もなかった時代ですが。)

フレンチトーストは、そんな私が食べやすくて大好きなメニュー。
しっとりしているので、口に入れやすく溶けやすく、
口をそう動かさなくてもおいしく食べられる、ありがたいメニューです。
このメニューはうち界隈では「み。ちゃんパン」と呼ばれていました。
私自身は「フレンチトースト」って言ってたんですけどね。
今でも大好きなのでよく作ります。
美味しくて、ありがたい味がします。
食の細かった私を救ってくれた食べ物です。

あれっ?なんだか生命維持の雰囲気ばかりクローズアップしちゃいがちですね。

今となっては私はとても食いしん坊になりました。
量は変わらず、そこまではいりませんが、
その分「おいしいものを味わうセンサー」がめちゃくちゃはたらくようになってます。
私の中で「おいしいもの」は、「滑らかなもの、口の中で程よく噛んだり潰せたりして、その食材のおいしさを楽しめるもの」「風味が楽しめるもの」に大きく食指が動くようです。
口の中にトラブルがあっても、比較的おいしく食べられるものを自然と好んでいるのでしょうね。
だから、他の方々もそれぞれの「おいしいもの」の味覚イメージがあるんじゃないのかなぁ。

うちの息子は、口いっぱいにほおばるのが「おいしいもの」の定義のようです。
彼は挨拶のように、私の顔をみれば「きょうのごはんはなに?」と聞いてきますが、
聞いて安心するのか、おかずが何かということ自体には実は意味がないのか、聞いた内容はすぐ忘れてしまうので、何度も聞いてきます。
何かの儀式のようです( ´艸`)

うちの娘も息子も、小さい頃からたくさん飲み、たくさん食べる欲求の権化のような子たちでしたが、食べている時の満足した顔がとても印象的でした。
食べる力があれば、生きる活力になる。彼らをみていると生命力を感じます。

私の母は、一人暮らしをしている頃は、なにかあるとすぐ食べなくなっていました。
「食べたくない」と拒否するのです。
それはある意味「生きたくない」という主張だったように思います。
いろいろあって、病気になって入院。入院時も食事拒否で大変でしたが、ある時から悟ったのか食べるようになりました。一時入所した老健のご飯がやたらとおいしかったそうで、そこに至るまでには認知症も出て、薬も受け付けなくなっていたのに、
老健に入ったとたんに覚醒しちゃって、どんどん元気になっていきました。
ご飯も足りないと大盛にしてもらうくらいに。
今は、特養に移り、好き嫌いを言いつつも、食べるのは楽しんでいるようです。

ここまで書いて、やはり食べることと生きることって直結しているんだなと感じます。
さらに食事は栄養のみならず、いかに食すかが、
私たちの生には大きく関わっているようですよね。

さらに、誰と食事の時間を過ごすのかや、
どんな風に楽しむかってことも、毎日を生きる大きなエッセンスになっていて、
これを無機質に食餌と考えるのか、もっと意味を持たせるのかでも、
人生においてえらい違いになりそうな気がします。

さて、ここまで書いて締めないとなんですよね。
「おいしく食べる効用は、人生を有意義に生ききる根源になりうる」とでも書いておきましょう。
おいしく食べるだけ、でもいいと思います。
が、「おいしく食べる」のその背景にあるもの、自分の思いや願いみたいなものも織り交ぜて考えて、おいしく食べることを考えると、そこには力が湧き出る源泉みたいなものがあるような気がしています。

今日はここまで。
だらだら書きになってしまいましたね。この手はもうやめよう( ´艸`)


自分を信じる・見えないものを信じる 2021.10.4

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このところ、私は守られてるなと思うことが増えました。
そもそも、神様や仏様、先祖を大切にするという気持ちは私はある方の人です。
でも、こと自分のことになると、それまで持っていたそれらを信じる心がふっと切れてしまい、自分はひとりきりだ~というような感覚に陥りがちでした。

数年前から、少しずつ自分の体感を取り戻すようなことをし始めて、
少しずつ「自分の大丈夫」「自分の中の確かなもの」を見出して
安心の土手みたいなものを確認しているところです。
本当は、土手のように固めなくてもいい、あってもなくてもいいとおもえるのがベストですが、いきなりそれはできないので。
土手といっても何か城を築くためのものというのではなくて、
子どもが土遊びをするような、そんな感じで。

そんな私は、最近また守られているような感じを思えるようになってきています。
誰かの存在を感じるとかそういうのではないのですが、
自分の中からラッキーを見出す力というのでしょうか。
そういうのが育ってきている、そんな気がします。


今日は8888を2回、888を1回見て、面白がっていました。
この手のゾロ目は、ここ半年くらいでしょうか。よく見るようになりました。
よく気づくようになったのかもしれません。

私はエンジェルナンバーといってますが、
天使からのお知らせだとすればいいなあと。
私がよく見ているリリさんのエンジェルナンバーによると、
8888は

基本的に「8」は、経済的な豊かさが手に入ることを意味しています。

それが4回連続で続く「8888」という数字はすごい力を持っており、あなたを大きな経済的成功へ導くことでしょう。

遠くない未来に、豊かな富があなたの周りを包み込むようになると、天使は伝えてくれています。

 

おお、これは素敵なお知らせ。

888をみてみました。

「888」という数字は、人生において大きな成功を手にする前兆です。

カリスマ性を表す「888」は、あなたが最も輝く時がやってきたことを教えてくれています。

あなたのパワフルなエネルギーは、強いオーラとなって人々を引き寄せることでしょう。

周りに人が集まってきたり、アドバイスを求められるようになるのも、一つの前兆です。

人生があなたの理想通りに進んでいくので、興味を惹かれることはどんどん挑戦してみましょう。

手が届かないと思うような夢も、今のあなたの力があれば成し遂げることができますので、思い切って行動に移してみてくださいね。

常に感謝を忘れずに周りの人を助けることで、宇宙に恩返しをするという姿勢が大事です。

「888」という素晴らしい前兆を信じてくださいね。

なんと素敵な!

さて、これらを信じ切れるかどうかにかかっているような気もします。
まずは謙虚に、やれることをコツコツとやるだけですね。

さて、明日はどんなメッセージに出会えるでしょうか。
そういうのを探すのが楽しいってのもあります。
物理的にありえなくても、それがゲームのように楽しければいい、楽しめればいいと思います。
限りある人生ってある意味ゲームのようなもの。
せっかくなら、楽しまなくては。そんな気持ちでいます。

今日は母方の祖父の命日でした。
仏壇のお酒をあけて、「おじいちゃん、飲んでね」と声をかけました。
母が高校生の時に亡くなってしまった祖父なので、
当然ながら私はあったことがないのですが、
祖父が居なければ私は今ここにいないのですよね。
当たり前に思っていることは、決して当たり前ではないのです。


今日は、歯列矯正の調整日でした。
またまたいろんな試練がありますが、自分で課していることでもあり、
その先の世界を見てみたいという思いもあり。
その辺はこちらのブログに書きました。

 

plaza.rakuten.co.jp


今書きながら、聞きている曲。ジミンちゃんの約束。優しい声。

www.youtube.com

お風呂で無心になる 2021.10.3

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昨日、アビスパ戦に行き、スポンサー様からの色んなプレゼントをもらってきたのですが、そのうちの一つが新日本製薬さんのお風呂で使うパック。

なんでもパックごと湯船につけて温めておき、
湯船につかってから顔にパックシートを張って5~10分置くというもの。

パックシートを使ったことはあったけど、
今までみんなひんやりタイプだったし、お風呂で使うことって初めて。

で、早速つかってみました。
効いているのかどうかはよくわからないんですが( ´艸`)
その間、湯船の中で、ひたすら数を数えるという行?をやってみました。

自分の呼吸だけに集中してそれを数える。
あたたかい湯船の中で、目を閉じて呼吸していくと
気持ちよくて、数字のカウントがいいリズムになります。
まずは5分がどのくらいかなと思って、60を5セット。
数を数えることが目的ではないので、時計をみてれば時間はわかりますが、
数えたほうがジーッと浸かっているよりも、心地よい感じがします、私はですが。

日常的に私たちって、無心になろうとしてもいろんなことを思いついたり考えたりしてしまいますよね。
お風呂の中ではリラックスしているからかひらめくことも多いのだけど、
せっかくのリラックスの時間を、もっとぐーっと自分のことだけに集中する時間とするならば、お風呂の時間は無心になってお湯に身を任せることが、
最大の美容であるような気がするわけです。

というか、こうして意識的に無心になる時間をとらなければ、
なかなか自律神経や精神を静かに保つことって難しい。
それに最適な機会が、お風呂の時間。
さすがに毎回、パックすることはできませんが、
数を数えるということに集中することはできるはず。


これからの季節、少し温めのお湯に少し長めに浸かるって
身体にもいい気がします。
香りのいい入浴剤を買って、秋の夜長を楽しもうかなーと
今日新しい遊びをみつけたようで、少し嬉しくなったので、
ここでもシェアをしておきますね。
湯船の中で楽しいことを考えるのもいいし、数を数えて集中するもいいし、
その時々で楽しみ方は変えてもいいかもですね。

パックの話に戻りますが、
化粧品メーカーに勤める娘曰く、
「化粧水パックなら冷やすといいし、
美容液パックならあっためるのもいい」のだそうです。なるほど。


応援という力 2021.10.2

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ワクチンも打ったし、宣言も解除されたしで、
2年ぶりにサッカー観戦に行ってきました。

うちは長年のアビサポ(アビスパ福岡のサポーター)。
応援グッズを入れたバッグの中からチケット入れを出すと、
2年前のチケットがそのまま入っていました。

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2年前はレベルファイブスタジアムでJ2。
今年はベスト電気スタジアムでJ1。
来ていないうちに、いろいろドラマがありましたね。

試合は、前半押されて0-2。
後半の後半で1-2にして、
がぜん盛り上がってきたところで、
絶対入るはずのシュートが外れてゲームセット😢

まあ後半はボール保持率も随分高くなっていて、
やっと攻めに力が入ってきた感じ。こういうのが見てて面白いんですよね。
惜しいプレイにも「あ~!惜しいいぃい!」ってマスクの中で叫んで、
メガホンで音を鳴らすのにも力が入ります。

果敢に何かに向かっていく姿には、
なぜか気持ちが向きます。惹かれます。
そして自然と応援してしまう。
うまくいかなくても、残念がってまた応援する。

なんで、こんなに応援しているんだろう、私。

BTSに対しての推し活だって、同じです。
彼らの奏でる楽曲に、ダンスに惹かれ、
夢中になって追いかけていくうちに、
そこには彼らを応援している自分がいることに気づきます。

応援しよう、と思ってから応援するのではなくて、
夢中になってみていると、
そこに自然発生的に応援する気持ちが、するりと知らん顔して入り込んできて、
はっと気づくと泣き笑いしている自分に気づくのです。

なんでしょうね、これ。
自分の中の何かが、プレイヤーやアーティストに投影される部分はあるのだと思います。

ゴールを目指して走ることを、ピッチではプレイヤーが汗を流してやっているけれども、それを見る方は、走るプレイヤーたちに知らず知らずに自分の気持ちを載せているのかもしれません。

楽しそうに踊り歌うアーティストに、彼らから発せられる楽曲に、私たちは心を揺さぶられています。
私たちは、自分がその曲を歌い踊るような感覚をどこかに持ちながら、アーティストの姿を見ているような気がします。
そして彼らを応援してしまう。これまた自然と。

結局私たちは、自分を応援したいのかもしれません。
自分ではない第三者を応援する時、自分が不在であるわけはない。
私が好きだから、私が気になるから、
私が応援をするのでしょう。
自分のかけらを自分の好きを自分の興味を自分の野望を、その相手に向けて。

何かを応援する時って、
力が湧き出たり、移動するのを感じます。
集中するパワー。つい声が出るような、思いがけない力が自分に宿ります。
一人の人間が、普通に生きているだけでは出てこないような力を、
自分から周りから集めて、集中して見えないパワーを発散する。
それがなにかを応援する時のパワー。

人ってすごい力を持ってるもんですね。

「応援しましょう」とか簡単に言っちゃってるけど、
応援の力って目に見えないだけで、実は物理的にも大きな力を持ってるんじゃないかとさえ思えます。
よくアーティストやプレイヤーが、応援に勇気づけられたと言われますよね。
それも大きな力だと思います。
自分たちの思いを代弁してくれるアーティストやプレイヤーたちが、応援の力に彼らの心を動かされ、もっとよりよいものがつくられる。

でも、そんな個人的な感動や感傷的な思いとはまた違う、もっと見えない大きな力が動くような気がしています。

今「推し活」という言葉が流行っていますが、
そもそも、その前からファンというのは常に居続けたわけですよね。
今に始まったわけではない。
ただそれが細分化されてきたのがここ何十年か。
時代とともに、私たちにも必要なパワーが変わってきたのかもしれません。

いろんなものに推しをみつけ、それらを応援することで自分の力+αを出していく、力を導いていく。
これって、現代人ならではの生きる力なんじゃないかな。
なんて思ったりした今日。


そして10月。2021.10.1

夏が終わった。

まだ30度越えの毎日ではあるけど、
なんだか急に、なにかが変わってきた気がする。

うち的には、夏休みで2か月弱ステイしていた息子が
大学の寮に戻り、
私も大学の後期がはじまって、

その前からのまん防、緊急事態宣言がやっとあけて。

個人的にも、ちょっと心境が変わってきている。
なぜかというのを、一言でいうのは難しいけれど、
状況としては、少し自分に対しての見方が変わったことと、
外に対しての見方も変わったことがある。

行動もこの夏はちょっと変動があったのを、
また少し戻してみる。

少しだけ気持ちが軽くなったような気もしている。

まあ、いつもより前向きにいる。
そういう点では、少しステージが変わったのかもしれない。

10月は、私にとっては生きることと死ぬことを考える月間なので、
いい切り替えの機会なんだろうな。

ブログとの向き合い方も変えようかとも思っているけど、
ここは相変わらずにするのか実験の場にするのか、まだ決めかねている感じ。

ま、こんな夜中に書かずに、もっと早い時間に書く方向には進みたい。

日をまたいでしまったけど、とりあえず10月の最初の痕跡を残しておこうと
書いてみました。

そういえば今日、久しぶりに氏神様への朔日参り。
おみくじ大吉💓
「人生は七転び八起。必ずしも良い時ばかりではない。むしろ逆境にめげず高い理想の元にひたすらな精進を続けたならば次第に運勢開け成功確実となる。」
大吉も嬉しいけど、書かれているこの言葉がものすごくしっくりきている。

高い理想は、現実を見ろと揶揄されることが多くて、
打ちのめされていた時期もあった。
でも、高い理想を掲げなければ、一緒に歩きたい人とも出会えない。
目指したい何かを共有したい思いが、
私の原動力の大きな一つなので、ここにふたをしてはいけないと思った。
それがこの夏の収穫だ。

いつ実るかもわからないけど、そうやって生きていくしか、
自分の心に火を灯しながらじゃないと、元気が出ないことが実によくわかったので、
頑張って歩きます。火を灯しながら、光を掲げながら。

おやすみなさい。

話をする・話を聞く 2021.9.17

23日ぶり。また備忘録として書いておく。

なんだかんだの低空飛行は、さほど変わらない。
それでも、まったく楽しくないわけではない。
逆に、いつもよりも喋ってるし、楽しんでもいるかもしれない。
このなかなか上に上がらない飛行は、
漫然たる不安が自分の中にずっとはびこっているからなんだろうと思う。
気候の変化で、私の体調は不安定になる。
不安はそんなときに大きく気持ちを揺らす。
これといって打開策を見いだせない時には、
そこから浮かび上がるのに、やたらと時間がかかる。

今日は台風のため、月1のF先生の診察が電話診察になった。
最近は、とはいえ、そんなにドーンと落ちたりするわけでもないので、
毎回のF先生との会話も、季節季節の日々気をつけることがメインになっている。

今回は、某所にしこりができていて痛いので、その相談をしたかったのだが、
思う以上の風雨による電話診療で、口頭での相談。
リンパだと思うが、発熱痛みが強烈でなければ炎症はひどくないだろうということで、
来月まで様子をみることに。
酷くなったら都度見ていただけるので、
一度先生に相談しておくことが安心材料となる。

今日は、今の私の体調の状況を説明したら、
先生が先日読んだという論文の話をしてくれた。
海外の事例で、認知症の人を追跡調査したところ、
回復した人と回復しなかった人の差異において
「相談相手がいるかどうか」がポイントだという結果が出たらしい。
レジリエンス(回復力)は、誰かに語ることができると上がってくるという。
※出典は探してみたけど不明。最近のジャーナルに乗ってたらしいのだけど。

いわれることはわかる。
それでいくと、私は今語る人を持っていないのかもしれない。
いろいろ思うところや、悩むことを人に言うことははばかられる。

と、こうしているうちにも、
家人はおなかの痛みで苦しみ転がっているので、
背中をさすりにいってきた。
本人の苦悩はわかってあげられない。
私の苦悩も、それを言ったところで
他者が重い気持ちを持つだけのような気がして、
言語化して吐き出すことをしてきていない。
私が感じているストレスのうちの大きな部分を占めているのには間違いないのだが、
それをいうとしても、相手を選ぶから。

今息子が帰省しているので、彼もその状況はみているのだが、
彼はあまり積極的に関わろうとしない。
ちゃんと話したことはないが、
彼なりの自分を守る術なのじゃないかと私は思っている。
家人のことについては、私は母か子どもたちとくらいの共有で、
母はこのご時世で面会中止で話はできないし、
子どもたちにも心配かけるので言えない。
義母になんかは絶対言えない。と思っている。
本人も具合悪い絶不調の時に義母から電話かかってきたら、
元気そうに話して、電話を切った後にまた苦しんでる。
心配かけたくないんだろうなと思うので、
本人が言わないのに私が言うのはやはり違うだろう。

そんな状況をどうにか癒してくれるのは、バンタンさまさまだ。
沼に入ると、自分の好きだけに没頭できる。
こちらも、好きの話ができる人がまだあまりいないので、発掘したい。

いろいろあって、自分の内的な話をする人を選ぶようになってしまった。
ここ数年は、人間不信が強いので、
なかなか素の自分でコミュニケーションする人を発掘するのが大変。

それでも幼馴染や同級生の数人がいてくれるのは、心の支えになっている。
なぜか、みな遠くにいるので、
チャットで話すくらいしかできないのだけれど。
たまには自分からチャットをしてもいいのかもしれない。

先生と話をしながらすぐにわかったことがある。
私の不安は、仕事や収入のことも多くあるということ。

F先生は、やはり優れたカウンセラーでもある。
看護師さんたちも「先生は特別」といわれるのがよくわかる。
話し手が自分の話をする中でわかっていく。
F先生と話す時は、私はある程度自分が何を聞いてほしいのかを考えて話すので、
会話の中で、こたえが出てきやすいのだろうとも思う。
おそらく先に先生が敏感に感じ取ってくれて、
「こんな話をしましょう」としてくれた話の中に、
自分が何かヒントを見出していくんだろう。

F先生から今日の話の中で言われたのは、
「あなたは人の話を聞いてあげるのに向いているのではないか」という言葉。
人の話を聞いてあげると、聞くだけで話したその人は救われる。
同時にあなたは助けた瞬間に救われる、と。

わからないではない。

実は今、聞くことに関する本を読んでいて、
これがなかなか面白いので寝る前のおともになっているのだが、
そこに「私たちは純粋に聞くことができなくなっている。
聞いていると思っていても、どこかで自分は何を言おうかを考えている」
というような記述があって、その通りだなと思った。
つまりは相手の言葉に解釈をつけてしまっているのだ。
ただ聞くということが、実は大切なのだとその本にはあって、
なかなか衝撃的だった。

F先生の話を聞いて、その本のことを思い出し、
今こんな本を読んでるんですよ~という話をし、盛り上がる。

F先生から、なぜか今の仕事の話を聞かれたのは、
こんな本を読んでいるからだったのかもしれない。
「あなたが持っている鋭いセンサーを不安に浪費させている。
それを相手理解にするんです。
あなたは個人的な不安定体験をいくつもしてきた。
そして介護の苦しみや病気の経験があるから聞ける。」
なんというか、青天の霹靂、、いや違う、
なんとなくそういうもありなんじゃと思っていたことかもしれないと感じる。

数秘やらの鑑定で出てくる適した職業で、
よく出てくるのの一つがカウンセラーだ。
ただ、私は自分ではあまり適していないとおもってきた。
人の話を聞くと、同調してどうにか解決をと思ってしまうから。
本を読んでいて、聞き方を変えればいいんだと思うようになってきた。

そういえば昨年からこの手の本に出合うことが多く、
自分でも傾聴の本は自然と手に取っていることがある。
身体は、ちゃんと必要なものを先に選んでいるのかもしれない。

F先生は言われる。
「カウンセラーはリスニングは9割。ただ聞く。
そして1割はソーシャルイノベーション的な理念。
前向きにこうしたら楽になるという方向を示す。
ただ人によって指標は違うから、押しつけはだめ。
あなたの鋭いセンサーを+にしていくためには、
徹底して自分の不安や志を徹底してみつめること。」

先生と志やソーシャルイノベーションの話をするとは思ってもいなかったが、
おもしろかった。
志がなくても生きれる人もいる。それを否定しないこと。
志とはそれぞれの指標ともいえ、それぞれに違うものだ。
先生は「得体のしれない世界に首を垂れる」という言い方をされたが、
そういう「すべてを任せている、委ねている」という状態にまでもっていけたら、
自分の設定した志が、自然と道しるべになってくれるのだろう。

今日はここまで。