ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

応援という力 2021.10.2

f:id:miww55:20211002234335j:plain


ワクチンも打ったし、宣言も解除されたしで、
2年ぶりにサッカー観戦に行ってきました。

うちは長年のアビサポ(アビスパ福岡のサポーター)。
応援グッズを入れたバッグの中からチケット入れを出すと、
2年前のチケットがそのまま入っていました。

f:id:miww55:20211003002301j:image
2年前はレベルファイブスタジアムでJ2。
今年はベスト電気スタジアムでJ1。
来ていないうちに、いろいろドラマがありましたね。

試合は、前半押されて0-2。
後半の後半で1-2にして、
がぜん盛り上がってきたところで、
絶対入るはずのシュートが外れてゲームセット😢

まあ後半はボール保持率も随分高くなっていて、
やっと攻めに力が入ってきた感じ。こういうのが見てて面白いんですよね。
惜しいプレイにも「あ~!惜しいいぃい!」ってマスクの中で叫んで、
メガホンで音を鳴らすのにも力が入ります。

果敢に何かに向かっていく姿には、
なぜか気持ちが向きます。惹かれます。
そして自然と応援してしまう。
うまくいかなくても、残念がってまた応援する。

なんで、こんなに応援しているんだろう、私。

BTSに対しての推し活だって、同じです。
彼らの奏でる楽曲に、ダンスに惹かれ、
夢中になって追いかけていくうちに、
そこには彼らを応援している自分がいることに気づきます。

応援しよう、と思ってから応援するのではなくて、
夢中になってみていると、
そこに自然発生的に応援する気持ちが、するりと知らん顔して入り込んできて、
はっと気づくと泣き笑いしている自分に気づくのです。

なんでしょうね、これ。
自分の中の何かが、プレイヤーやアーティストに投影される部分はあるのだと思います。

ゴールを目指して走ることを、ピッチではプレイヤーが汗を流してやっているけれども、それを見る方は、走るプレイヤーたちに知らず知らずに自分の気持ちを載せているのかもしれません。

楽しそうに踊り歌うアーティストに、彼らから発せられる楽曲に、私たちは心を揺さぶられています。
私たちは、自分がその曲を歌い踊るような感覚をどこかに持ちながら、アーティストの姿を見ているような気がします。
そして彼らを応援してしまう。これまた自然と。

結局私たちは、自分を応援したいのかもしれません。
自分ではない第三者を応援する時、自分が不在であるわけはない。
私が好きだから、私が気になるから、
私が応援をするのでしょう。
自分のかけらを自分の好きを自分の興味を自分の野望を、その相手に向けて。

何かを応援する時って、
力が湧き出たり、移動するのを感じます。
集中するパワー。つい声が出るような、思いがけない力が自分に宿ります。
一人の人間が、普通に生きているだけでは出てこないような力を、
自分から周りから集めて、集中して見えないパワーを発散する。
それがなにかを応援する時のパワー。

人ってすごい力を持ってるもんですね。

「応援しましょう」とか簡単に言っちゃってるけど、
応援の力って目に見えないだけで、実は物理的にも大きな力を持ってるんじゃないかとさえ思えます。
よくアーティストやプレイヤーが、応援に勇気づけられたと言われますよね。
それも大きな力だと思います。
自分たちの思いを代弁してくれるアーティストやプレイヤーたちが、応援の力に彼らの心を動かされ、もっとよりよいものがつくられる。

でも、そんな個人的な感動や感傷的な思いとはまた違う、もっと見えない大きな力が動くような気がしています。

今「推し活」という言葉が流行っていますが、
そもそも、その前からファンというのは常に居続けたわけですよね。
今に始まったわけではない。
ただそれが細分化されてきたのがここ何十年か。
時代とともに、私たちにも必要なパワーが変わってきたのかもしれません。

いろんなものに推しをみつけ、それらを応援することで自分の力+αを出していく、力を導いていく。
これって、現代人ならではの生きる力なんじゃないかな。
なんて思ったりした今日。