ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

自分の状況の言語化 2022.3.11

この数週間にあったことが結構私に大きく影響しているので、
一つずつ取り出してみていきたいところなのですが、
次から次に、北国の雪のように積み重なっていってる感じ💦
その論理からいけば、上の新しい雪から除雪していくしかない。
下の方で根雪になりつつあることも書いている途中なのですが、
新しいことの方から。

今日は長文になります。(自分の中を整理するためにだだっと書きますので、
不快な方は読まないでね。オチもあるかどうかわかりません。消化不良になるかもしれません。)
誰かに話すような口調で書くことで、
ある程度感情をセーブし、自分の中で少しでも伝わるようにつながるようにという意志が働く効果を狙っています。
と言ってもですます調は、一部だけ。
基本的にはだである調で、自分の思いをそのまま書きます。
飾らない、うそのないという思いがどうやってもだである調にしがち。
まあこの辺はグレーゾーン💦

記憶ってすぐになくなってしまうので、
残したい記憶はすぐ書くのがよいし、
早めの処置の方が不要なものを早く除去することができるというのは
わかっているのですが、
体調や目の前の締め切りとの関係が問題。
すっぱり割り切ることができない性格が問題。

自分の本心とそのすっぱりの判断が合致すればよいのだけど、
私の根雪になっている昔からの思い込みや未消化の思いは、
私の顕在意識でははかれないものがあります。
そこにほんとに気づきたいし、ケアしていきたいのだけど、
そしてそれが私の体調につながっているのならば。。。

そういう概念的なものをあれこれ考えていても、
私の根雪を溶かすことにはならないだろう。
ただ、表面にでてきていることは、
根雪になってしまっているものからの信号であるという仮説に基づいてみています。

====

このところ体調が悪い。
具体的にどう悪いかというと、
肩と首の凝りと痛み。
食欲不振。
胃腸の不安定さ。
入眠が難しい。
朝起きれない。
寒気。

昨日はこの一連の不調に加えて頭痛が酷くて、起きれない、起きても何もする気にならない、机に突っ伏す、という感じだった。
机に突っ伏すことは、体調が悪い中でも結構大変なことなので、
この行動を自分がとったことに対して、ああ、状況は相当悪いなという自覚を促すことになった。
痛み止めの薬を飲むためには、どうにかして食事を摂らなければいけない(胃が痛む)
が、食欲がない。
柔らかく甘いものなら食べられそうなので、
フレンチトーストを作って食べる。
どうにかそのくらいまでは動くことができる。

この体調の悪さに、心も相当落ちていた。
からだの元気があれば、ある程度のことはこなすことができる。
こなせればそれが自信になり、身体の元気も心の元気も保つことができる。
が、体調が落ちていると、心に直接的に反映してしまう。

おそらく引き金は、歯列矯正後のリテーナー装着だ。
リテーナー装着についての辛さや慣れなさは前回書いた通り。

miww55.hatenablog.com


私よりも半年ほど早くリテーナー生活に入った息子は「慣れだよ」というのだが、
私の場合はHSPだからなのか、激しく痛む。
そしてもともとの懸念であった鼻呼吸ができないことがさらに増して辛い。
私は右鼻がほぼ機能していないので、
左鼻だけでの呼吸だと酸素の取り込みが足りないのだと推測する。
おそらく起きることができないのは、リテーナー装着によって、
鼻呼吸ができないことに拍車がかかり、
睡眠時無呼吸の度合いが強まっているからだろうと思う。

舌の置き先が定まらないので、口回り首回りの筋肉が緊張する。
緊張をほぐす薬を寝る前に服用するようにしてみたが、
効いているのかどうか不明。
鼻呼吸をスムーズにするため、鼻あらいを再開。
点鼻薬もつかうようにしてみている。

というような、思いつく仮説に基づいての対策と対処療法をして、
どうにかパソコンの前に座れるようになるのが14時くらい。
今日は昨日より痛みはましで、薬を飲まなくても生活できている。
それだけでもありがたい気持ちはする。

今日は3.11だ。
そこに居合わせた方よりは、、と思いつつも、
人の痛みや苦しみは、他者と比較はできないものだ。
朝ドラでひなたが桃に自分の方がもっとひどいよみたいなことを言ってた今日だったが、客観的に衝撃のひどさを比較するのはともかく、
本人の辛さは他者とは比較できないし、
比較したところでだから辛さが和らぐわけでもないと思う。

3.11と比較する私がよくないが、
辛さの一瞬一瞬は、どれも強く辛いのだ。自分でそれを思い、慰めにするのなら、
効果はあるかもしれないが、
他者からそれを言われるのはどうなんだろうと思ってしまう。

ちょっと話がずれた。

昨日がその症状が大きく悪化した日で、
そんな日に限っていろんな連絡が入ったりした。

翌日は病院の定期健診、
翌々日から2日間通しのイベント参加の予定だった。
通しのイベントは、運営側のサブの予定。
この状況では、私は機能しない可能性の方が高い。
迷惑をかけるのが一番悪いとわかっているので、
今回は2日前の段階で断りをいれた。

その決断をしたのが13時半くらいだったろうか。
その連絡をしようとしてメッセを書き始めた位に、
今度は病院から連絡が入った。
翌日の診察を翌々日、つまりイベントの日に変更してほしいというものだった。

私の主治医は月に2回しか診察をしない。
先生は講演や研究で忙しくされていて、
結構な割合で変更依頼がある。
でもF先生(主治医)に診てもらいたいので、
変更はやむを得ない。
そのことが、ひとつ断りの理由にはなった。
(不調で、原因は特定できなくて、なんていってもなぁと正直思っていたので、
この理由は人に伝えるにはいい理由ではあった)

昨日はあまりにもな自分の症状に降伏した。
だから判断も早かった。
その位にならないと降伏しない自分にも対峙する。
どうにか当日には元気にならないかな、
そんな希望みたいなものがいつもある。
でも今回は絶望が多かった。だから早めに連絡を入れたのだろう。

予定イベントが2時間程度のものであれば、
多分頑張って行こうとしているかもしれない。
2日間早朝から夕方までぶっ通しの企画は、今の私の体には無理。
それに対する絶望。
自分の体をだませない。その気力がもうないのだ。
年を取ったからというよりは、もう我慢する耐力がなくなったというか、
我慢したくないという怒りの方が強いかもしれないと思う。

となると、向き合わなければならないのは、
自分のからだと自分の感情だ。

ふり出しに戻った気分だ。
小さい頃から自分の体調の予測がつかない、
落ちた時どうすれば落ち着くのかさえ、毎回違って予測がつかない。
長年やってればだいたい対処法がわかるという人がいるが、
私はそういうタイプの体質ではなさそうだ。
手を変え品を変えという感じで、痛いところや症状は変わっていく。出方も違う。

自分だけならともかく、
親や周りにも「また?」と言われ続け、
「わたしのせいじゃないもん」とずっと思ってきた。
きついのは私だ。
(とはいえ、大人になってきつい人の周りの人もきついことに気づいた。
今は周りの人の役割が多いので、どっちの気持ちもわかる)

その辺の、長年溜め続けた「わたしのせいじゃないのに!」が
からだへの不信感となってしまう。

が、どちらが先なのか?
からだの不調→「わたしのせいじゃない!」怒り
なのか、
「わたしのせいじゃない!」というからだの怒り→からだの不調→
なのか。

F先生は「からだにはからだの理由がある」とおっしゃる。
そうなった時には、まず症状をとめてあげること。
例えばおなかが下ってしまった時には、整腸剤と場合によっては下痢を止める薬を飲んで、
おなかに「ごめんね」といい手当をする。
そうやっておなかの機嫌をとる。からだに手当をしてあげる。
ここで根本の原因にアプローチが先と、体のケアを怠ると自分を痛めつけることを加速することになる。

難しいのは、対処療法をしても、
落ち着いた時にはそれをキープしたいので、
不調の時にはできないことを思いっきりやってしまうことだ。
もちろん、セーブはする。
でも「私には時間がない!」ばりに、思いつくことを自由にやりたい魂のままに生きてしまうと、また同じ悪夢がやってくる。
結果、からだをケアしたりからだの声を聞く暇がない。
それでからだが癇癪を起しているといわれるのなら、それはよくわかる。
わたしの感情がからだに対して怒りを持っているから、
からだも同じように私に対して怒りを持っているとしてもおかしくはない。

でも、じゃあどうやってからだの声をきけばいいの?

先日、ボディサイコセラピーの入門コースを受講してみた。
入門コースといっても次があるわけではなく、
たまたまの1回コースが開講されたので行ってみたのだった。

ここで、体を使うあるワークをやった。
ちょっと痛みを伴うものだったが、
それをずっとやっているとなんとなく湧き上がってくる思いがある。

何度かのワークごとに、出てくる思いは人それぞれみたいだ。
私は小さい時からの思いや、体に対しての理解だったり。
ああ、からだはものも言わずに頑張ってきたのだなぁとか。
左足の言い分、右足の言い分みたいなものが勝手に言葉になって浮かび上がってきて、
おもしろいというとなんだけど、興味深かった。
それは私の顕在意識にはないものだったから。

このことを、今書いている途中だったブログ記事に書こうとしていたのだけど、
結局ここに軽く書いてしまったのは、
私の思いがつながっているからなのだろう。
顕在意識にないものが出てきたら、それは潜在意識の声だと思うしかない。
というか思いたい。

で、結局どうすればいいのかがやっぱりわからない。
毎日そのワークをすればいいのか?
症状にでることをおそれて動きを止めたくはないけれど、
今までそうやってからだを酷使してきたから同じようなことが起こっている。
ではそれをどこらへんでセーブするのか、
どうからだとこころを交わらせていけばよいのか。
どうすれば私は幸せと感じることができるのか。
結局のところは、今の自分にいかにOKを出せるのかなのだろうか。
からだが不調な自分をダメだと思わない自分というのは難しい。。。

とにもかくにも、痛いのは嫌だ。
そして自分を痛めつける自分も嫌だ。
楽になりたい。
楽に暮らしたい。
このブログのタイトル「ほほ~んと暮らしたい」の「ほほーん」は、
のほほんではなく、もっと気楽に力をぬいてふんわりと自由に、、そんなイメージだ。
そんな風に生きることができたら、もっと人生を前向きに楽しく生きれるのだろうと想像してみている。
想像だけになっていて、いつも苦しいことをひたすら我慢してやり過ごしながら生きている自分に怒りとやるせなさを感じ、そのことをまた押さえつけて生きている。
文字にすると、ホントにその押さえつけられてる子はかわいそうだ。
でもじゃあ、どうしたらこの争いは和解するのか?

からだからのアプロ―チの方がうまくいくかなと思ったけど、
こっちも思う以上にむずかしい。
ただ、体からの場合は他者の手助けが
もしかしたら使えるかもしれないという希望もある。


入門コースで理解したことはいくつかある。
心身が社会に適応するために作った過緊張の鎧を外し、自分の内側からの思いが外ににじみ出るようになった時、社会(外界)と自分とがつながることができたことになる。
ということ。

わかってはいたことをあえて言葉で理解した感じだろうか。
私が得たいものとしての「外と中が一致する」という世界なのだと思う。
ただ、それらの鎧は見えない。私の今のどこにそれがあって、
それはどんな感情を守るためにあってどんな感情を避けるためにあるのか、
なぜ何のために必要だったのか?
どうとかしていけばいいのか。
なくなったら今度はどう構築していくのか。

見えない鎧は幾重にもつながっていそうで、
それを見える化するにはどうしたらいいんだろうとちょっと途方にくれている。
みえないから対応ができないが、みえれば、対処のしようもあるのではないだろうか。
どんな問いを自分に問えば、それらは健在化していくのだろう。
私はLSPをやっているので、モデルを作り考えることはできる。
これまでこの手の分野にLSPは使われていない(と思う)が、
結構使えるんじゃないかという気もしている。

それから、根本は愛だということ。これがエネルギー源でもある。
そうだろうなぁと思う。
頭での理解と心の中を見直しての理解。
そうであれば納得がいくという感じの理解。

書いたメモをじっくり読みなおしてみていく中で、
思い出す部分もあるし、あれ?これどういうことだっけ的なものもある💦
あれだけ納得感を持ってきいていたのに、これだ💦
つくづく記憶という物も当てにならない。
だから私は割と即書いてしまわないと気が済まないのだろう。

からだと頭の価値観が違うというのも同じ理解の仕方。
バランスが大事というのはわかるけど、
じゃあそのバランスってどうとるの?
バランス取れてる取れてないの自覚はどこでチェックすればいいの?

謎がいっぱい出てくるけど、
正解は人それぞれなのだろうか。
実際私もそういうことを学生に言い続けてきた気がする。
自分の中で納得解を得るしかないのだろう。

ただし鎧についてはある程度のものがありそうで、
核となる部分に愛があり、その周りを感情のよろい、筋肉?(膜)のよろい、自我のよろいと囲んでいる。
自我はまだわかりやすく見えやすいが、私の場合はおそらくその奥の筋肉(膜)と感情の部分のよろいがみえていない。若干はそうだろうというのはあるが、それらの関係性がいまいちみえていない。

というところまでで、今回は終わろう。
堂々巡りのところもあるけど、そのまま置いておく。

私がやってきたことは、今後どうつながっていくんだろう?
私の中の愛は、それをどうつなげていこうとするんだろう?
私自身の愛を光を思う方向に当てていきたいものだ。
(なんか無理やりっぽい〆になりました)