ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ 2020.11.20

F先生の診察日は、月1から1,5月に1度になった。
私が言い出し、3回ほどそんな感じでやっている。
1か月しか出せない薬があったのだけど、倍量出してもらう感じでフォロー。
そこまで量飲んでないからできる技。

ただ今のところはそれが限界みたいで、
前回は、後半不調期に入り、今回もそうだった。

どこが痛いというのはないけれど、ふわっとそしてスーッと心が冷たくなるような感覚がくることがある。
その感覚のギャップ感が「なんかごまかしてないですか?あなた」と言われてるみたいで身がすくむ。

先日の診察時にF先生に相談した。
毎回やるPONS(非言語的感受性テスト)では、かなりよい。
それはそうだ。この1週間は基本的に調子はよい。
が、スポット的なこの不安さはこのテストには反映していない。

私の場合、こうして体の不調で自分の心のひずみがでてくる。
それはうすうす気づいてはいたものの、4年前に決定的な症状が出て、
心も体もダウンしたことで、自分の中でやっと認知されたものだった。
基本的に環境の変化には敏感なくせに、自分のことになるとかなり鈍感だ。
その時以来、必死に自分の声を聞こうとするのだけれど、なかなか聞けないでいる。
だから体を通して聞く。
なんらか体に不調が出るのは明らかにサインだ。
特におなかに不調が出ることからはじまる。
早めにケアしないと、薬コントロールもできなくなるので、
「あ、ごめんね、ごめんね」といいながら、
ご自愛モードに入る。
頭を使うこと、無理にしていると思うことは一切やめる。
自分の感覚を満たすことに専念する。

F先生の見立てとしては、ここのところの気圧の変化が原因だろうとのこと。
いつものことだが、季節の変わり目に変調を起こすことは私の場合デフォルトだ。
これはもう私の体質でもある。
四季のある日本に生まれついているので、余計に症状として出てしまうのだけど、
ある意味体が日本的なのだろう。

沖縄に住むといいような気はしている。

さて、F先生の受診日から、そこまで状況は変わらずにいた。
先生は、これまでのBOOCSをすることしかないという。
つまりは禁止抑制をできるだけせず、自分にとって心地よいこと(快)をはじめること、
自分の感覚が求めることに素直に従うということ(だと私は認識している)。

昨日からなぜか肩と首が痛くなり、今日は頭痛に発展した。
今日はいろいろやってみたが、落ち着かず、頭痛薬も効かない。
あーあと思いながら、クナイプを入れてお風呂にゆっくりつかってみた。
クナイプは効く。(自分比)

ちょっと考えていた仕事のことの気づきがぴぴっと来て、
ああ、なるほど、こういうことか!ととても納得することがあった。
そんな中でも、
頭痛はまだまだ進行中。

お風呂から上がって、作りかけのハンバーグをこねながら考える。
今日買ってきたミンチはふわふわでさすが高いだけある笑と思いながら、手の触感を楽しみながらこね、整形する。楽しい笑

ふと、からだに猛烈に悪いことしているなという思いが湧いてきた。
頭よりも体感が上回ると、メッセージを受け取れるのかもしれない。
お風呂の時もそうだ。お湯の感覚を肌で感じている時だった。

それで、ハンバーグを作りながら、からだと心に謝った。
「気づいてあげられなかったね。ごめんね。」と。すると痛みがすーっとなくなった。
やっぱりこれか。
みごとだ。

わたしはあやまってほしかったのかもしれない。
みとめてほしかったのかもしれない。
わたしのからだやこころが、何か訴えていることに対して、
耳をむけてるよ。わかってるよっていってあげてなかった。
私は私を認知しているよって、いつも大事に思ってるよって、
わかってほしいって思ってる。きっと。
そしてきっと私自身は、そこに怒っているんだ。

茨城のりこさんの「自分の感受性ぐらい」という詩そのものである。


「自分の感受性ぐらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 

茨木のり子
詩集「自分の感受性ぐらい」(1977刊)所収

 

これに気づけたのは、今日の収穫。

肩も首も頭も痛くなくなっている。