ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

自分が知らない私を知るその③熊本・浮島神社へのポートレート撮影の旅

その②書いてから、忙しさで〆が遅くなってしまいました。
今日こそは〆る!
その①はこちら↓

自分が知らない私を知るその①熊本・浮島神社へのポートレート撮影の旅 - ほほーんと暮らしたい(再)
その②はこちら↓

自分が知らない私を知るその②熊本・浮島神社へのポートレート撮影の旅 - ほほーんと暮らしたい(再)

さて、浮島神社の駐車場側でひとしきりのんびりしたところで、美子ちゃんが、
「あっちに神社みたいなのが見える~。あそこに行ってみたい!」というのでよくよく見ると、田んぼの真ん中にこんもりした森っぽいのが見え、鳥居のようなものが。

せっかくだし、行ってみるかと、車に乗って駐車場を出て10メートルくらいのところに、堰?川?せき止められた場所を発見。水がとっても澄んでいる。
その場所を通過し、目指す鳥居の場を目視するも、あぜ道を行くしかない感じ。
おそらくこの辺の田を守る、神社というより祠のようなものなのだろうと思う。
そこにはそんなにご縁がないかなと3人とも思ったので、気になる先ほどの場所に戻る。

水はとてもきれいで、たにしが歩いた後がいっぱい見える^^
もっと先まで行くと、土から砂や小石の底面になっていて、じーっとみてるとあちらこちらからぷくぷく。。

ここだったんだ…!

浮島神社を囲む池は湧き水だと書いてあったのだけど、どこから湧いているのかが確認できなかったのがちょっとひっかかっていた。
もちろんここだけではないのだろうけど、「湧き出る場所」は私が求めていた場所だった。
最初は恐る恐る手でばしゃばしゃするだけだったけどw
そのうちやっぱり耐えかねて、靴下を脱いでイン!
水は冷たくて、でも我慢できないほどでもなくて、ひんやりと心地よい「静」が感じられる。
そのうち真ん中あたりまで行ってみたくなって、じゃぶじゃぶ。
するとちょうど私の足元から、ぶくぶく、ぷくぷくと泡が。「湧いてるっ!!」
もう嬉しい!理由なく嬉しい!
というシーンが、この写真です↓

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子ども心健在。というか、そもそもな私が私のままにいたというか。
しばし、遊んだ後、この気持ちのいい水辺で、目を閉じて風と水の感じ、日の感じを感じて座っていた。
向こう岸には、アブラナ系の草花とモンシロチョウがいっぱい。

賢太郎さんがパシャパシャと写真を撮っている音も気になりましたが、随分リラックスできるようになっていたかな。

私の緊張しーは大人になってからの方がひどくて、
それって経験のマイナス部分が積み重なってできたもので。
無知な時には敵や事象の姿がみえないから、逆に恐れを感じずに済む。
無敵~って感じで突き進むことができる。
でも、敵や事象経験値的に知ってしまうと、
「どうにかするのは自分しかいない」と妙に構えてしまう。
子育て期間の孤独さが、ここに拍車をかけてしまった。
「誰も頼れない」という思いは、絶望感を産む。
「自分でやらなきゃ」という呪いを自分で自分にかけてしまった私は、
今だその呪縛から逃れられていない。
でも、その呪縛を解きたいのだ。
呪縛を解くカギは、きっと自分の中にある。
でもその、昔は知っていた私を、私は奥底にしまい込んでいる。
傷つくことを避けるために。私の素の部分だけは、誰にも侵害させたくないからか。
それを思い出すために、私は賢太郎さんという他者の力を借りることに手を挙げたのだ。

今ここまで書いて、「天岩戸」だなとふと思った。
私の中の私は、天岩戸の中に閉じてしまったあまてらすさまと同じ。
あめのうずめさまやや他の神々がやったように、この子を外に引っ張り出さなきゃいけないんだ。外に出るための鏡が、今回のポートレートみたいなものなのかもしれない。
私は凡人なので、天照神のようにはいかないから、何度も何度もやるしかないのかな。なかなかに長いけど、これがいきるという修行なのか。

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賢太郎さんが、1000枚ほどの写真の中からこの一枚をチョイスして、言葉を書いてくれたのが、この作品↑。

他者の言葉には、私が知っている自分と知らない自分が居た。

この写真が届いた時に、彼に送ったメールが以下↓。
===
「ひとつひとつの出会いや発見を大切にしてる」、というフレーズは

顕在意識の自分にあります。
でも
「日々別れ際の切なさを感じているかのように」
というのは意識したことがなかったので、新鮮です。
とはいえ、きっと私は寂しいのが嫌い、切ない気持ちになるのがつらいので、
そこは見ないふりをしています、多分。
切なさをもかみしめると、一つ一つの出会いや発見がもっと大切に、ありがたく思えるのかもしれませんね。
そんなことを思いました。

「感」という文字は、私の中を占める結構大きな要素です。
感覚で生きてますからね~笑
それと私は、感じることに敏感です。敏感すぎるから不安定になることも多く、気づかないふりの発動もしていて、「ふたをしている」のがこどもの頃からの癖でもあります。
自分のパンドラの箱を、開けようかどうしようか迷っているところでもあります。
どうせ一度の人生ならあけてみればいいのですが、怖い気持ちが立ちますね~。
===

ここでは「ふた」「パンドラの箱」って書いてるな。
そうか、「天岩戸」と「パンドラの箱」はおなじようなものだったんだ笑

蓋は自分で開けなくてもいい気がしている。
「自分でやらなきゃ」が強すぎるうちは、どうやってもぎこちない。
やるべきことをやりつつ、たまには走って後付けして、たまには人に委ねて後付けして、そうやって誰かに頼りながらも納得解を見つけ、今より少し幅広い道をあるいていけるようになれればいいなと思う。今の私は。
これがいいのかどうかは、わからない。もっと走った方がいいような気も、一方ではしているから。でも時期とタイミングが必要でもある。今はどっちかというと粛々とローペースで、しっかり地道に動きながら確認していく感じかな。多分そこができてない。

自分の感覚に任せて、熊本にも行ったし。そこで出会えたものは私の宝物になったし。
人よりもゆっくりだけど、それが私なのだろうな(性格的にはせっかちな馬なのだけどw)

賢太郎さんのブログを再掲しておきます。

賢太郎さん、美子ちゃん、お世話になりました。ありがとうございました。
今度はおうちにも寄せていただきたい!

kentarotakase.jugem.jp