ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

花と祈り 2021.1.29

今日は一日、花というキーワードが目に付く日だった。

最近春の花が咲きだして目立つこともあるのだろう。
友人たちも、よくSNSにあげている。

そして久しぶりに読んだ坂爪圭吾さんの投稿。
(ほんとはツイッターの別記事でおはなのことを読んだのだけど、
なぜか消されちゃってた)

note.com

彼のちょっと前の投稿が気になっていた。
彼はなぜかよく花を配っている。彼がよくサムネイルで使うのもガーベラ。

「お花を二本購買してください」と言いたい。おすすめはガーベラです。ガーベラは空気を浄化する力があります。見栄えも良く価格も180円前後と破格です。一輪は自分のために。もう一輪は誰かのために。是非ガーベラを購買してください。

 
そう言えばうちのベランダのガーベラ、うちの中にいれてみようかなと思ったのだった。
ちょうど2鉢あり、どちらも少し元気がなくなってきていた。
しおれた葉をカットして、こまめに手入れしていたら、
どちらも元気になった。

いいタイミングで、いい機会をもらった。

そして、今日道を歩いていた時のもの。
今日初めて出会ったわけではないけど、今日はこのきいろが目に入った。
多分黄梅だよね?

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帰宅してFBをみていたら、おともだちがあるツイートを紹介されていた。


今日は、ちょうど義父の命日で、
先ほどはお地蔵様のところで、義父や先祖の方のご供養をと、思いを馳せていたところだ。
帰宅して、改めて家系図をみながら、過去帳を追記したりしていた。
あったこともない人だけど、巡り巡ってご縁のある方々がいる。
そんな人たちは、みえないけれど確かに私の前に生きていた方々だ。
その人たちが私の前を頑張って生きていてくれて、
それを後年の今私が生きる。
命はリレーションされる。命をつないでくれた方、ご縁のある方に、
どうぞ私の応援団になってください、と祈ってみる。

願いをかなえて欲しいというダイレクトな欲もある。
特に、今日は強く願った。願いをかなえて欲しいと思う気持ちは大いにあるので、それは否定しない。
でも、それよりも、そういうところで願うことで、自分の思いが明らかになること、
そしてそんな自分の思いを言葉にして出して、ほっとさせてもらえる、
祈りの場は、そんな機能があると思う。

少し話がずれちゃったけど、
ツイートの話に戻ると、
亡くなった方のことを思うたびに、
その人のところにお花が降ってくるって、
思っただけでもとても幸せな気分になった。

このツイートのコメント欄に「ウチのばあちゃんが天国で花にまみれていたらいいなと思います。」ってのがあって、ほんとそれ!と思う。
今日、うちの先祖さんたちのところにはお花が降りまくってるはず。
それを、おしゃかさまやかんのんさまが、にこにこしながらみてるといいな。

こんなことを書くと、
馬鹿にするような人もいるけれど、
人生や肉体がなくなってからのことの解釈の違いだと思う。
過去に肉体を持って生きた、私にゆかりのある方々が、
幸せでありますようにと祈る時、自分が嬉しくほっとする感覚があるのだ。

先ほど挙げた坂爪さんのブログの中に、Yさんという20代男性の言葉がある。
「祈りとは、一人ではなくなることだと思いました」
Y様は言った。祈りって、深い悲しみとか、深い喜びとか、そういった深い感情に結びついているものだと思う。人間の中にある深い感情は、何かしらの『祈り』を含んでいるものだと思う。と。

ああ、なんかわかる、と思ってしまった。

今日の巡禮記お話会のテーマはくしくも「人の祈りってなんなんだ?」。

お花から祈りへ。
今日の私の一日でした。
いのりはくらしそのものでもあると、先達さんが言われていたなぁ。

であれば、人生において祈りはセットなのだと思う。
祈る対象はそれぞれ。誰かを気遣うことも祈りだ。


ここで〆ようと思ったのだけど、
でも、今日は一つ自分の中で確信めいたものがあったので書いておく。

私はうそをつきたくない。
自分に対しても誰に対しても、正直でありたい。
そう思ってやってきたはずだった。
でも、自分に対してうそをついてきたのかもしれないと、
ふと思った。
いい子であろうとした子ども時代。
そして今まで、自己主張はしているつもりだった。
自分は自分の人生を生きていると思っていた。

その時は自分に嘘をついているなんて思ってもいなかったし、
どうにかなりたいと思っていた。
そう、じぶんではないなにかになりたかったのだ。
それに今更気づいてしまった。
それは自分に対する全くもって不誠実な思いと行動だった。

じぶんに向き合っているようで、じぶんをおいてけぼりにして、
そうではないできる自分、誰からも認めてもらえる自分になりたかったのだと思う。

わたしはわたしを生きたいと、きいろちゃん=わたしのなかのわたしは必死で願ってるのに、外側の私はこれまた必死に環境に迎合しようとしている。
そうでないと、人に認めてもらえない、稼げないと。

そして何度も失敗して、自分はできない子だと思い込む。

その繰り返しだ。

このゲームはもう終わりにしたいのよ。

ではどうすればいいのかというのは、正直わからない。
わからないから、神社とお地蔵様とに願いに行った。
正直なところは、行くつもりではなかったけど、息子の用事で外に出たら足が向いた。

不安の解消のためもあったかもしれない。
それも素直に言葉にした。

「いまの私は、こうねがっています。こうしたいんです。

どのようにしたら、私の良さを活かしていきていけるでしょうか。
どのようにしたら、私の能力をいかし、
過不足ないようお金をいただくことができるでしょうか。
お知恵をください」

神仏とそして私の中のきいろちゃんにむけて言葉にしたら、
少し腹が座ったというか、落ち着きが戻ってきた。
そして、自分が抱えていたプライドのようなものやおそれがみえて、
それをそっと横に置くことが出来た。

もう、誰にどう思われるとか気にしていたってどうしようもない。
思いついたことを片っ端からやっていくしかない。

いくつかの行動も起こした。
ダメ元だ。

人にどう思われるかと思うことと、自分がそれによって傷つくことが怖いし痛手だ。
それを癒すのも自分の役割なんだと思う。

今日はまたひたすら2222をみせられる。
その後1111もきた。

2222“あなたの信じる心と信じる勇気が、すべての道を切り開きます。勇気を出して、信じる心を持ち続けてください”
1111“あなたの望みはすぐそこにあります。願望を叶える時です”

 

全てはきっと揃っているんだろう。
そして、その扉をあけるためには自分で動かないといけないのだろう。

今日のおみくじもそんな感じ。

何かの手の上で、必死に動いているのだろう。
でもすべてが応援団だと思えば、それらに自分の身をゆだねて、
動くしかない。
孤独を感じたら、祈ろう。叶うと信じよう。