ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

愛されたかった私

自分の中にたまっているものを掘り起こしてみると、
そこには母のおなかの中にいた時から持っていたであろうと思われる、
「私はここに居ていいのだろうか」という圧倒的な自己否定だった。

子どもの頃の話を娘や息子にしていた時に思い出した感情。
「私がおりこうでなければ、お母さんに迷惑かけちゃう」
「誰かに迷惑をかけることは、悪いことだ」
「迷惑をかける私は、存在価値がない」
という強烈な思い込み。

そういう思いを持っているのだろうと思いはしていたが、
ここまでだとは思わなかった。

事実、母親は子育てや結婚生活、夫の実家との折り合いにかなり苦労していたようだ。
だからこそ、私はそれを敏感に感じ取っていた。

だけど、私の自己否定感は、私の思い込みだ。

アルバムを見た。
なんと、私は愛されていた。
写真には、愛されていた私と愛してくれていた母が映っている。
こんなに愛してもらっていたのに。
母だけではない。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、父にも、ひいばあちゃんにも、おばにもいろんな人たちにも、愛されていたのに。

勝手に思い込みで自分の人生を決め込んで、受け取れないのはバカだ。

私は貴重な確率で、母のおなかに宿り、父と母の子として生まれた。
愛される対象として。

息子が言う。
「もっと楽しいことを考えて好きなことをすればいいんだよ。」
「おかあちゃんがいなかったら、僕たちは生まれていないんだよ」
この言葉には重みがある。


私は愛されていた。
できれば「もっともっとぎゅーってして」って言えばよかった。
その分を私はこどもたちにしてやった(つもり)。

だけど肝心な自分がおいてけぼりだ。

愛されていた私を認めて、
愛されてないとひねくれていた私を許したい。
愛されないと決め込んでいた私を許したい。

愛されていいんだ。
迷惑かけてもいいんだ。
うまれたことを後悔しなくていいんだ。
逆に、私は生まれたことで家族にみんなに幸せをギフトしたのだ。

自分を罰しちゃだめだ。
心と身体を楽にすることが、私の心と身体が望んでいること。
肩の力を抜き、自分にやさしくすること。
自分にやさしくなれると、いろんなものとの関係がほぐれてゆく。
きっとそして自分らしさが、ふんわりとあふれてくる。

母から愛されていたと知った時、私は小さな子どもに戻って泣いた。
母のことを父のことを大好きだった私、それを大きな声で言うと迷惑をかけると思い込んでいた私を許そう。もういいんだと。

いや、愛に対する飢餓感はまだある。愛されたいは今でも大きい。
それもまんま認めて、私は私にやさしくする。


こんなにきついのに、志なんていってらんない。

愛されたい。幸せになりたい。気楽になりたい。健康になりたい。
抵抗する愚かな自分に降参。大いなる力に降参。