とも子先生のメルマガへの返信。
こうして「書く」場があることはありがたい。
気持ちがぐちゃぐちゃでも、一旦言葉という形にすると、
少し整理ができる。
こうして「書く」場があることはありがたい。
気持ちがぐちゃぐちゃでも、一旦言葉という形にすると、
少し整理ができる。
幼い頃から、駆け引きような好意しか受け取れなかったひとは
大人になってからも、他人からの無条件の好意が信じられません。
これ、とても心当たりがあり、
無条件の好意を示す人に、「何の根拠があって?」 と詰め寄ったこともあります(苦笑)
今になってみると、 素直にそうかと受け取ればよかったと思うのですが、
きっと幼い頃から愛されるには条件が必要だと思い込んでいたと思 われる私には、
今はやっとそういうこともわかってきましたが、
それでも手放しで、誰かの言葉を素直に受け取って、愛として自分の中 に入れるということが、
できるのかどうか?疑問です。
というくらいこじらせています。
これ以上傷つかないようにとバリアを張っている、
そのバリアをゆるめることからやっている感触です。
例えば私は過敏性腸症候群を持っているので、 おなかを痛めたりします。
私自身がセンシティブすぎて、気候や天候の変化、 災害のひどさに必要以上に影響を受けることも多いのですが、
それらによって引き出された不調に、「 また私が症状を作っている」という悲嘆を載せてしまうことが、 往々にしてあります。
私がセンシティブなのは、もともとの性質もありますし、
おそらく幼少の時の状況が 「幼い頃からのひと付き合いの仕方の型がそれだったから」 だったからだと思います。
母が忙しそう、迷惑かけちゃいけないという思いを抱き、
構ってほしいのに構ってほしいと言えずな幼少時代。
身体の弱かった私はすぐ体調不良を起こすので、そのたびに「 また?」といわれることや、
母親の仕事をストップさせてしまうことで、「私はダメな奴だ」 とレッテルを自分に貼ってしまう。
その繰り返しでした。
思えばその頃からストレス満載だったのでしょう。
その点で全く変わっていない、というか、
そういうやり方でしか人と付き合っていけなかったのかもしれませ ん。
私と付き合えば、 私の身体がすぐこうなることは誰もが知っています。
それが弱点だと思っていました。
これがあるから自分は悪い、ダメだと思っていました。
この頃自分をみつめるようになってから、「 敏感なあなたは素晴らしい存在なんですよ」とある方に言われ、
そういう本も何冊も読みました。 以前よりは受け入れられるようになりましたが、
この体でいいことあったかなぁ? というのがいまいちわからないんですよね。
あえて言うなら、他者の痛みがわかるということでしょうか。
困っている子はいないかなというのはかなり気を配っているので、
仕事上では、場がうまく回るように配慮することは得意といえます。
話は戻ります。
身体が弱い自分、センシティブな自分=悪い、ダメだ、価値がない
を当時はそうだったけど、今はそうじゃない、 環境が違うよねという話はわかります。
けど、その延長線上でずっと生きてきているので、
じゃあどんな風に変えればいいの?ってのが、つかめずにいます。
身体が弱い自分、 センシティブな自分を認める諦める素晴らしいと思う、
ってのは、
=悪い、ダメだ、価値がない よりも、 私には乖離を感じてしまうのです。
悪かったら我慢するという罰を自分に与えることで、
バランスを取ってきたのかもなと思います。
自分の中の折り合いのつけ方を、
ポジティブでもっと気持ちが楽で納得がいき、
自分が幸せになるような方向に向けるには、
「そんなことないよ」「自分を痛めつけてごめんね」「 よく頑張ってきたね」「素晴らしいよ」「価値あるよ」「 大丈夫だよ」って言ってあげる、
自分を育てる声かけを、 根気強くするしかないのかなと思うようになってきました。
体調が悪い時には腐れかけますが、 それでもよく頑張っていると思います。
私の性格自体がちゃぶ台をひっくり返すようなところがあるので、
そこは歯を食いしばって、コツコツやってます。
(ホントは歯を食いしばっちゃいけない気がします。 現実的に歯を食いしばりすぎて顎関節症っぽいですし、 歯やあごが痛いです(><)
が、ここで投げ出しては元も子もないので、そこは頑張ってます。 )
人からいくら言われてもダメなんですよね。
自分が自分でやって納得しないと。
まさに育自だなと思っています。
子どもたちがお腹にいた頃に、 話しかけていたことを思い出しながら、よしよしとやっています。
思いきって捨ててしまいたいものは、自己卑下をする自分、 勝手に罪悪感を持つ私です。
それこそ根拠はないのだから、そっくり捨ててしまいたい。
自分の中の5歳児よりも小さな未熟児の自分に、 もっと大丈夫安心していいよっていってあげたいと
本当に思います。
かわいそうなことをしてきました。
そのことをわかってあげられるのは、 私だけだよなぁって思います。
無条件の好意を示す人に、「何の根拠があって?」
今になってみると、
きっと幼い頃から愛されるには条件が必要だと思い込んでいたと思
今はやっとそういうこともわかってきましたが、
それでも手放しで、誰かの言葉を素直に受け取って、愛として自分の中
できるのかどうか?疑問です。
というくらいこじらせています。
これ以上傷つかないようにとバリアを張っている、
ここで、間違えたらいけないのはこの言葉には、とても救われた思いがしました。
「自分はいかに小さい人間なのか」と自分を責めないことです。
これはまったく自分にとって、逆効果になると私は思います。
なぜなら、前述したとおり、人がそのように弱点を持ったのには
「幼い頃からのひと付き合いの仕方の型がそれだったから」
そこを抜かして、解決はできないからです。
自分が小さい人間だから、ではないのです。
自分が悪いから、ではないのです。
例えば私は過敏性腸症候群を持っているので、
私自身がセンシティブすぎて、気候や天候の変化、
それらによって引き出された不調に、「
私がセンシティブなのは、もともとの性質もありますし、
おそらく幼少の時の状況が 「幼い頃からのひと付き合いの仕方の型がそれだったから」
母が忙しそう、迷惑かけちゃいけないという思いを抱き、
構ってほしいのに構ってほしいと言えずな幼少時代。
身体の弱かった私はすぐ体調不良を起こすので、そのたびに「
母親の仕事をストップさせてしまうことで、「私はダメな奴だ」
その繰り返しでした。
思えばその頃からストレス満載だったのでしょう。
その点で全く変わっていない、というか、
私と付き合えば、
それが弱点だと思っていました。
これがあるから自分は悪い、ダメだと思っていました。
この頃自分をみつめるようになってから、「
そういう本も何冊も読みました。
この体でいいことあったかなぁ?
あえて言うなら、他者の痛みがわかるということでしょうか。
困っている子はいないかなというのはかなり気を配っているので、
仕事上では、場がうまく回るように配慮することは得意といえます。
話は戻ります。
身体が弱い自分、センシティブな自分=悪い、ダメだ、価値がない
を当時はそうだったけど、今はそうじゃない、
けど、その延長線上でずっと生きてきているので、
じゃあどんな風に変えればいいの?ってのが、つかめずにいます。
身体が弱い自分、
ってのは、
=悪い、ダメだ、価値がない よりも、
悪かったら我慢するという罰を自分に与えることで、
バランスを取ってきたのかもなと思います。
自分の中の折り合いのつけ方を、
ポジティブでもっと気持ちが楽で納得がいき、
自分が幸せになるような方向に向けるには、
「そんなことないよ」「自分を痛めつけてごめんね」「
自分を育てる声かけを、
体調が悪い時には腐れかけますが、
私の性格自体がちゃぶ台をひっくり返すようなところがあるので、
そこは歯を食いしばって、コツコツやってます。
(ホントは歯を食いしばっちゃいけない気がします。
が、ここで投げ出しては元も子もないので、そこは頑張ってます。
人からいくら言われてもダメなんですよね。
自分が自分でやって納得しないと。
まさに育自だなと思っています。
子どもたちがお腹にいた頃に、
思いきって捨ててしまいたいものは、自己卑下をする自分、 勝手に罪悪感を持つ私です。
それこそ根拠はないのだから、そっくり捨ててしまいたい。
自分の中の5歳児よりも小さな未熟児の自分に、
本当に思います。
かわいそうなことをしてきました。
そのことをわかってあげられるのは、