ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

風邪と罪悪感 2020.2.16

一週間ほど前から寒気が続いていたので葛根湯を飲み続けるも改善せず、
とはいえご飯も食べれるので頑張っていたものの、
ここ数日、全身倦怠感と節々頭肩腰の痛みが酷くなって起きているのが辛く、若干発熱(でも7度代)。

というのが、14日にFBに記した文章。

買い物にも行けないので、昨晩楽天西友ネットスーパーで、今の私が食べられそうなもの調理できそうなものをポチし、翌日夕方大量の食材が届きました。
が、この時すでに見るだけでも具合悪い状態に。
不調な時の体調は、ころころ変わります。よく変わればいいのだけど。

ここまできたら、もう病院に行かずに治るんじゃないかなーと思ってたんですが、行ったほうが良いのかもと悩み中。
けど病院まで歩ける気がしない。

そんなこともFBに書いたら、「病院に行け!」がほとんどのコメント。1つだけ「今、病院にいくのはこわいかも」というのもあった。

ほんとに、今回は体中の倦怠感、痛みがひどく、寝てるしかなかったので、
まず病院に行こうという気が起こらなかった。

でも、よくなるような感じにもならず、かかりつけ医は日曜月曜はおやすみなので、
行くなら土曜日。
夫が車を出してくれるなら、、そして予約が開いているなら、、
というのをどうにかクリアして、診てもらいにいきました。

症状的に、もしかしたらインフルエンザB型かと思ったのですが、
判定はシロ。

となると、私のいつもの過敏性が大活躍しているとしか思えないわけで。

のども腫れてない、咳も出ない。鼻水はおそらく鼻炎から。
主症状の「寒気、発熱、腰等の痛み、多少の吐き気食欲不振、頭痛」をクリアするには、ひたすら気を休め体を休めるしかないかと、吐き気止めと痛み止めを頓服で出してもらって帰ってきました。

ちまたで流行りのコロナウイルスの方は40度が一週間続き、、とあって、咳もすごそうだし、今の私がそれにかかるともう耐えられないだろうなと思うわけで。
ひたすら身をひそめるしかない冬場。
冬眠って理にかなっているような気がします。
ああ、人間にはなぜ冬眠がないのだろう。

最近の私のテーマが「罪悪感の克服」なのですが、
こうして病気になると、予定のキャンセルを余儀なくされます。
金土と仕事が入っていたのをキャンセルお願いしたのですが、
その前に少し「あれ?」と思うことがあって。

今やっている仕事の上司?に当たる方は、
旧知の方なのですが、一緒に仕事をしはじめて半年。
年代は私より少し下。
まあ昭和育ちという点では同じなので、ひとくくりかなと思うのですが、
私は大学でも仕事をしているし、イノベーションであるとか多様性であるとか、新しいリーダーシップの在り方だとかいうのは、割と普通に理解をしているつもりで、
NPOだとか小規模の団体でやっているところの方々、特にトップはそういうことへの理解はあると思っていたんです。
思い込んでいたのかな。
でも先日会話中に、あれ?この人結構旧態依然だなと思うところがあって。
なんの話だったんだろう。ちょっと記憶が薄れていますが、
「みんなでカバーしあおうよね」的なことが伝わらないなと感じたわけで。
「ねばならない」が強いと感じてしまうのは、私にまだまだ「ねばならない」が強く残っているからなのかな。

その辺がずっと体の中にあって、今回の風邪の起因になっている気もしないこともないのです。
未消化の思いは、なにかしら体の不調としてサインを送ってくる。
そんな気がします。

言わなくてもわかるだろうという環境から、そうではない環境に。
(ある意味逆なものもありますが)
人と仕事をするということは、非常に難しいものですね。
その人の価値観って、しばらく一緒にやらないとみえてこない。

私の「罪悪感」も、しばらくでてこなかったのに、
環境が変わるとやはり出てきてしまう。
ということは、私自身の根本が消化できていないということだ。

めんどくさい、自分さえスルーすれば、、となっていき、たまっていく。
めんどくさいのところで、そっちのほうをみないようにしてかかわらなくしていたのは、環境が変わったらそれは回避していただけだったということに気づく。
逃げても、回避にしかならない。

罪悪感なんて感じなくてもいいって、自分が心底思わなくては、消化しないんだなぁ
ということまではわかった。


さて私がいるだけでいい。価値を見出さなくてもいい。と本当に思えるのかどうか。
自分ができることで価値は提供してきたつもりだが、それでよしとできるかどうか。
もっと、と期待されているのはわかっている。
そのもっとが、「決まった時に来る」とか「休まない」だとしんどくなる。
体あっての仕事だから、体がいつも平常運転である率は、私は人よりも低いので、
だからそれでもいいよと言われるにはどうしたらよいかと考えた挙句、
レベルを上げること、それでもいいよと言われるようになることを志望したが、
実際はそこまでになるにはタレント性が必要であり、
私レベルの人は結構いくらでもいるわけで。
そこに自分の価値を見出すのは無理だとわかった。

私自身がそこにOKを出さねば、ほかの人に自分を売ることなんてできないわけで。

いちばんしんどいところに、結局フォーカスが来る。
私の自己否定の一番のとこでもある。自分に自信がない。人に「こんなところが私は優れています」といえない。
「わたしなんて」という言葉は使わないけど、「このくらいのやつ、どこにでもいるよ」By天沢聖司
はつい言ってしまう。
これは「ここまでいきたい」というビジョンがあり、今の自分のレベルがわかっていて、ビジョンに向かって努力している奴が言うにふさわしい言葉で、
ビジョンや周囲の状況をぼやっとしか把握できていない今の自分にはあんまり適さないなとは思う。

私のいう理想は、みなにはきれいごとに思われるようで、
あまりくちにもしなくなってしまった。そのうち自分でもわからなくなってきた。
私は何を目指しているのだろう。


どんな人にも心地よく、誰もが自分を否定せずに居れる社会。お互いを補完しあえる世の中。頑張っている人が無碍にされない世界。


ただそのためには、自己開示が必要だ。お互いが同じテーブルにつきお互いの自己開示を受けてフィードバックしあえる関係性づくりが必要だ。
それができるまで粘り強くやるのか、
そういうシステムをつくるのか、
今どっちからもやろうと思っているから、余計にしんどいのかもなと思う。


いくつかの場所で、それぞれにやりたいと思うことがあり、それを有機的にくっつけられないかと考えているのだけど、それらをうまくシステムに組み上げられるような人と出会いたい。
なるほど、こうして書いていくと、自分がどういうイメージを持っているのかがはっきりしはじめる。

あまり人には執着せず、できることをできるだけのところでやり、ある程度の自分のやりたいこと、できることの主張はし、折り合いをつけ、自分の全部を仕事にささげず、自分のできる例えば60%くらいの中で、配分してやる。くらいを徹底しないとだめだな。