ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

怒涛の波の後は~その後その②魂のお話

駅で動けなくなってから6日目。
今日は絶食3日を経て、おかゆから食べてもいい日なのだけど、
いまいち食欲湧かない。
おなかはまだ芯が痛いし、熱が微妙に37、1℃。
家の中歩くとふらふらするのは熱のせいかな。
なので、寝ちゃ起きおさゆ飲んじゃ寝の繰り返し。
でもそんな毎日でもいろいろありすぎて、時系列には書ききれないヽ(´Д`
憶えていられない。
というより、まだ具合悪い(´;ω;`)

PC前に座るよりも寝とけ!と言われそうですな。
実際そうなんですけど、書くことで吐きだしたり整理したりしないと
安心できないたちなので。。。
安心して寝るためにもごちゃごちゃしているものを一旦文字に落としたい。

育子さんが「書いてることで、美和子さんの納得と、次への道が繋がっていくことは、【書くという祈り】動きの祈り、ですね!」って言ってくださって、
「ああ、ありがたいなぁ、そういうことなんだなぁ」と。
こういうのは他者じゃないと言葉にできないことなので。

【書くという祈り】は、
動きの祈り!

字を大きくしてみた。

育子さんのブログはこちら↓

ameblo.jp
いや~、もう彼女には本当にお世話になりっぱなしです。
巡禮記からことあるごとに、とても頼りにさせていただいています。
私の方がずっと年上なのにねぇ。

さて、その育子さんとのカウンセリングで、私を構成する要素だとか、
インナーチャイルドだとか魂のミッションだとかを聞きました。
前2つは自分が生きてきた中で「そうだろうなぁ」と思うことがベースだったので、「ああ、やっぱり!」というのと「そことそこがやっぱりつながっているわけね」
という納得感があるものでした。

で、魂の話です。これは正直難しい。
でも、私が理解した分だけ書いてみる。

そもそも魂は、制限がない世界に居る。
身体がないから、時間の概念がないから、
会いたい人がいればそこに行ける。
痛みなし。
不安なし。
叶えよう、叶わないなし。

そんな魂が、「人を体験しよう!」と人間になることを求めてやってきて
私たちの身体に宿ることを「わけみたま」というそうだ。

熊野に巡禮記で行った時に聞いた話でいくと、
魂は成仏しようという時にだいたい8つに分かれてさざれていくそうだ。

そのつぶつぶになったものらが「わけみたま」、、だと思う。

魂はわかれてもどこにも入っているって感じかな。

で、次に人を体験しよう!と生まれ変わってくることをする際には、
同じような思い?ミッション?を持った分離体たちが集まる。

私の場合は、特に「どうにもならないことをやるのが人生だ!
人生は刺激!とにかく刺激を味わいたい!」とでも思ったみたいで、
そのひとつひとつの角をとがらせるようにして構成されているみたい。
これはおそらく夫や母も同じ部類な気がする。

魂は「分離してみたい!」「その分離した状態で生きてみたい」
なんてことを思うらしく、その人でないとできないようなパーソナリティを
魂として構成する。
これが魂の癖というものみたい。
この魂の癖は、前提として「体験欲求」が激しくベースにあるみたいで、
「どうにもならないことをやってみたーい!」という
かなりの刺激フェチであるそうだ。
で、それが「魂みがき」になるらしい。

この魂のやっかいなところは、これが徳になるとかそういうことは
一切思ってないらしいこと。(仏教的には徳なのかもしれないけど)
なので魂的には喜怒哀楽すべてが「刺激」なのだそうだ。
激しい振動が好きということなんだろうなぁ。

で、一つだけ魂に関して納得するのは、私自身が
「何もない人生より山あり谷ありの方が楽しいよね」という
価値観の元に生きているってこと。
そこは納得している。

で、一番最初の、私の魂の設計図に戻ると、
とにかく責任感あり、人のために献身的だし、
でも今回は、自己犠牲にならないというチャレンジをするというのがミッションみたい。
これは非常に同意したい!
自分の個性も認めるけど、それで随分と失敗してきた記憶もある。
自分を大切にしてかついかにみんなで幸せになるかというのは、
私の人生の志でもある。
今回のミッションと私個人の志や目指すところは一致している。

が、しかし、魂の癖というものはやっかいで、
生活をしている中で、うまくいかなかったり、どん底に落ちたり、
とにかくいろいろある中で感情が思いっきり動く。
この感情の動き自体は、魂とすればいいことでも悪いことでも
大喜びで大満足らしいのだけど、人間である私には、
いいことならまだしも悪いことだと心が死にそうになるくらいのモノだったりする。
現に今回は、もうどうにもならないくらい苦しく、

発狂するんじゃないかのレベルだった。

これをどうにかしたいのだ。

じゃあどうすればよいのかというのがまたちょっと難しい。

今のエゴを持った私。感情を持ったわたしは、今、スクリーンの中にいるような感じだとする。魂からすればスクリーンに映っている私は、
「これ、したかったの!」ということを演じている私だ。
このストーリーを味わうためにこういうことをしている。
魂的にはこのスクリーン1だけじゃなくていっぱいスクリーンを持っているはずで
映画館シネコンでいっぱい映画館があって、
それぞれかかっている映画が違うという感じかな。
またはチャンネルが違うという方が正しいのかもしれない。
周波数と育子さんは言っていた。
周波数を変えると(チャンネルを変えると)、
「あ!そうかも!」が含まれた現実になる。つまりストーリーが変わってくる。

私が仕事でやっている夢チャレや書くPやLSPでいう
「気づき」のことだろう。魂的にやっていることを
「何でそういうことを今やってるのか」とか「もうわかった。もうそういうことにしよう。」という納得だとかがふとできた瞬間に、その周波数が変わるのだ。
「ああ、今までこれしかないと思ってやってきたけど、
あれ?もういいよね、これ捨てても」とか
手放しで今までの人生を俯瞰してみれるようになれば、
パラドックス?が起こり、結果現実の想像が変わってくる。
つまりストーリーが変わってくる。

これは、書くPでやった話だ。
で、納得感もある。

なあんだ、私はこのことを知ってるんじゃん。

「渦に巻き込まていくのではなく、俯瞰する自分という視点で魂のことを見れれば、生きがいの本質が見えてくる。」
「魂はそもそも安心なところにいて、安心なところに帰っていくので、不安なことはまるでない」
「魂にとって生きがいとは、エゴの達成以外の何かが達成したいと思っていること。」
「魂は理不尽なゲームは、飽きると終わり次の刺激に行く」
「だから、責任感のあり方や頑張り方が変わってくると、違う刺激になる」

思いが変われば行動が変わる、もいえるし、
行動が変われば刺激も変わる、ということか。

魂だけじゃなくても私たちのエゴにも癖がある。それは重々承知。
ここ数年のSIや表Pの授業でも、この話はよく出てくるししている、
ということは、私のエゴはこのことを知っているということだ。

「なんでこの繰り返しをやってるんだろう?」と魂に問いかけてみる事、
「しんどさに同調しないこと」(同調する=そのままやっていていいよという促進にもなってしまう)、そこを踏ん張って?諦めて?俯瞰して。
「もうそろそろこのストーリーは学びにして終わりませんか?」と魂に言ってみる。
というのが方法なのかな。

と同時に、自分の納得も必要で、開き直るというか、
「良くも悪くもこれが自分なんや」「よくなろうとする自分も私、よくなろうとする自分を辞めるのも私」というところまで来て初めて扉が開く、、のか。
まあどっちも価値がある、と、まるまるどっちでもわたしでいいやんか。と、
価値観のレベルを増やす、モノの見方を広げる、、ということかいな。

育子さんいわく「がけで落ちそうになってて手を放すか離さないか」という時にわかるものらしい。
まだ私はしがみついている。離すと死んじゃう気がするんだもん。
でもえいってやってみると生きる別のストーリーが生まれるのかもね。
その度胸があるのか私。

まあこの手の話を知らないと知っているのとは、
状況が来た時の心の持ちようが変わるはずなので、
これに出会えた私はまだまだ可能性がある。

「私はわたしでいい」と思い、「私の役割ってなんだろう?」
「責任ってなんだろう?」「自己犠牲って何だろう?」
「自己犠牲とそうでないものの境目ってなんだろう?」をみて、
腰を据えて「わたし」を生きていくと決めると、
私の中の今までそれに抑制されていた私が動き出す。
痛みや緊張感じゃなく、落ちても落ちなくてもどっちでも大丈夫だ、という選択をする体験ができれば周波数は変わる。

後半は、書きながらドキドキしているので、
まだまだ腑に落ちていないものもあるのかもしれない。
頭ではすっかり納得しているのだけど。
え~!もうこれ以上いや~ってマジで思ってるけど、
まだまだ自分の役割って、とか責任って?って
ちゃんと考えきれていない部分があることは確か。
「だってやだもん」でそこを置いてきてるから、
チャンネルや行動を変える、その選択肢をもっと持ってからさらに考えたり、
そういう場に身を置くとああ、と気づけるのかもしれないなと思う。

ということで、魂編はとりあえず終わり。

次は、魂のストーリーを変えるにかなり強力な力である私の中の私の話。