ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

母と暑気払い。記憶の妙。2019.8.14

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なかなか書けないでいる日記。
ちょこちょこFBには書いているので、
そのFBに書いたものをベースに加筆して載せておきます。

今日は、母を誘って居酒屋に。
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思い立って、母を誘って居酒屋で暑気払い。
二人でこうして呑むのは、もしかして25年ぶり位かも。

今年は、お盆に長崎への帰省はなし。
先日義母プレゼンツで広島の旅をしたので、もう帰らないと夫が宣言。
義母はちょっと寂しそうだったけど。
私もプロジェクトがあっていて、やっと休める3日間なので、
正直なところ、帰省しないのはありがたい。

息子はというと、12日からともだちと東京でアニオタの旅をしているw
本来なら今日帰ってくるはずだったのだけど、
超大型台風のおかげで帰福予定の便が欠航の可能性が出て、
振り替え可能になって、まだまだ遊びたい彼らは2日延長したのだった。一緒に行った友人の友人のお宅にごやっかいになってるらしい。
振り替え手続きも自分でやってたし、
失敗したとしても経験になるからまあいいかなとは思ってる。

きっと、志望大学は東京に絞られるのだろうwww

明後日は無事に帰ってきますように。

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先日ニュースを見ていて、あれっと思ったので、記憶をたどってみた。

日航機事故の時、私は実家の本家に居て、
親族たちも毎年のようにたくさん来ていた時に、テレビからのニュース。
「とんでも無いことが起こった」と思った記憶がある。

日航機事故は昭和60年。

父が亡くなったのは59年10 月。
だから、その時は初盆だったはずだ。

私がバイク事故で大腿骨骨折して手術したのが60年1月。
治りかけの6月に再度骨折して再手術した。
その時の入院は1ケ月半位だったから、8月のこのお盆の時期は、
やっと祖父母の家に帰って来てクタクタな時期だ。
あの夏は体力が落ちてしまっていて、
食べられずきつくてずっと寝ていた記憶がある。
確か8キロくらい痩せて、9月に大学に行った時にみんなにびっくりされた記憶もある。

でも、私にとって大きなこれらの出来事が、
同じ時期なのに関わらず、私の中でリンクされてないことに気づいて、
ちょっと驚いている。

私が日航機の事故をテレビで見た、あのシーンは、そこだけが強烈に切り取られている。その右側の奥の仏壇の横には、回り灯篭や、お盆の長い提灯が書けられていたはずだし、そこには父の遺影もあったはずなのだ。

そして私自身の身体は、当時はまだ松葉杖だったはずで、ぎこちなさ不自由さを強く感じていたはずなのだ。でもそのことは全くそのシーンとは連動していない。

ほんとに、衝撃的なニュースが流れるあのテレビの画面を、少し遠くの座敷からみている、その状況の切り取りだけが記憶としてある。。数秒間の動画的な記憶。

それを昨日考えていた。

私は結構昔から記憶力が良い方で、
それを自他共に認めてたのだけど、記憶ってあてにならないものなのかも。
そういえば、ちょっと前に記憶がないことに衝撃を受けた投稿をブログでしたなぁ。

で、暑気払い。私は小さいビールで、母は日本酒。
お刺身や焼き鳥をいただく。

母と飲みながら、さっきの記憶の数々を母に確認するも、
母も、佐世保に来ていたはずなのに「福岡でテレビを見たと思ってた」とかいうから、
二人で「記憶ってあてにならんね」ということで話は収束した。

そういうことで、記憶ってかなりあいまいで、
昔のことになればなるほど、時間軸はあいまいになっていきます。
そういうことが増えてきました。はい。

まあ、母とこういう話が出来るのは、一緒に生きてきたからなので、
ありがたいこと。
お盆に、そういう話が出来るというのは、
向こう岸に早く渡ってしまった父の計らいなのかも。

母も少しお洒落をしてた。
娘がプレゼントしたシャネルの5番の香りがふわっとする。
「やっぱりいい香りだね」っていうと「あ、香る?」と嬉しそう。

母も随分元気になって、施設では車いすだけど、
外に行く時には杖で私が手を添えれば随分歩けるようになった。
今日もいい感じだったので、
「この感じならバスにも乗れるかもね」というと「うん、そうかもね」という。
会話も前向きになってきて、嬉しい限りだ。

今日は息子も夫も不在だったから、ある意味タイミングが良かった。