ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

ヒーローズジャーニープロットで振り返る巡禮記 沖縄 3-2.再生

3-2.再生



福岡に戻ってからも、沖縄のことを客観的に振り返ることはなかなかできなかった。

1日目は身体の疲れを取ることを優先した。

写真の整理をしたり、深く考えなくていい作業を中心に片づけた。
母のところに行き、沖縄の自然と歴史について感じたことを伝えた。
母のところに行く前には、お地蔵様に寄るので、そこでまず沖縄に行ってきたご報告。
「正直、沖縄のことは”楽しかった”とはまだ言えない状態です」と素直にお伝えした。

そうなのだ。
本来なら氏神様に報告に行くのが筋なのだろうけど、
どうも気乗りがしない。
「こんなことがあって、こんな風に思いました。」というような状態には
まだ自分の中で整理ができていない。
1日目も2日目も3日目も、いろんな角度から地雷や手りゅう弾や矢が降ってきて、
爆発した後が散乱している感じだ。
まずは何がどう降ってきて何に当たったのか、
何が壊れて何が無事だったのかなんていう状況整理もできてなくて。

まずはそこを客観的に見れるくらいまで落ち着かないとダメだなぁと思った。

だが、ほおっておくと風化してしまうのは避けたかった。
私の気持ちを亡き者に自分でしたくはなかった。

とりあえず当日それぞれ私はブログを書いている。
自分で自分の心にピン止めしたものは覚えていれるので、
それを少し後から見たらどうなるかなと思っていた。

からだはいろんな反応をしている。
沖縄後、体調は良くなかった。
沖縄後半から、歯科矯正による口の中の違和感と口内炎の痛みがまた出てきていた。
帰ってからは、疲れとくしゃみ鼻水の風邪っぽい症状が出だした。

じっくり考える気力もないまま、最低限の決まっている用事だけは
済ませるつもりで動いていた。
帰福2日目は、婦人科へポリープの検査結果を聞きに行った。
結果は良性で、ほっとした。
思いのほか診察が早く終わったので、
好きな映画「ボヘミアン・ラプソディ」の3回目を見に行くことに決めた。
この映画は何度見ても、飽きない。
ストーリーもわかっているのに。
それでも物語が進行していくと、最初の部分を忘れてしまうのだ。
それで細部までもっとじっくり見たくなる。

映画館に行くバスのいいのがなくて、最初思っていたのと行く場所を変え、
路線変更した。途中で降りて歩いていくと住吉さんがある。
そうか、ここに行くことになっていたのかもね、と、
お参りしてから、映画に行くことにした。
この日のブログはこちら。

miww55.hatenablog.com

こんなことを書いている。

・行くつもりのなかった住吉さん。
でも、行くことになってしまった。
行くようになっていたのだろう。
お稲荷さんは改修中で、仮の宮が建っていた。

私の船に乗ってほしいクルーの、具体的な像をお伝えし、お願いしてみた。
人のご縁、場のご縁がほしい。

 

まだまだ何も沖縄の振り返りらしいことはしていなかった。
そういえば、一人は嫌だと泣いた1日目。
応援者がほしい。
どんな人に応援者になってほしいのだろう。
私はどんな人に自分の船に乗ってほしいと思っているんだろう。
住吉さんで、以前それを願ったことを思い出した。
巡禮記座学の時のプチ巡禮記で住吉さんに来た時だったか。

それで、自分の船に乗ってほしい人の像を具体的にお伝えしてみたのだった。

ボヘミアン・ラプソディ」も、もう歌やキャストが身近な存在になりすぎている。
悲しいシーンもあるが、それさえも愛おしい。
雨の中のシーンで、メアリーがフレディーに「メンバーや私はあなたの家族だ。
あなたはここにいちゃだめ。家族の元に帰りなさい」というようなことを言う。
あのシーンが好きだ。家族とは単に血のつながりだけを言うのではない。

彼らの中にそれぞれ自分がみえる。
フレディの苦悩や葛藤は私の中にあるものでもある。
そしてこの映画のテーマの一つである家族も私のテーマだ。
そんなことを感じる映画だから親和性を感じるし、好きなのかもしれない。

そこからしばらく体的にダウンし、
ますます考えるということから遠ざかる日々が続いた。
今思えば、身体的には毒出しし、
変化の前の状況だったと言えるのかもしれなかった。後付けだけど^^;

「考えないでおいておく」これは私の主治医のF先生がよく言われる言葉。
因果をすぐ求めたがるが、それが正しいとは限らない。
出てくる感情をみて、ああそう思っているんだと感じ、それをみておく。
そうすれば、いつかうまくいくようになっていると。

いらちな私は、なかなかそれができなくて、すぐ結果を求めてしまうのだが
最近は、F先生案も一理あると思っている。
でも性格上できないのでw、
こうして物理的にそれができないような状況にしてしまうというのはいい手だなと思った。
今回、結果的に考える暇がないままに、
でも自分の考えるべきポイントだけは、絞れてきたのだった。

***

3日目に飛行機の中で書いた文章が、私は私の一番私らしい声だと思っている。
あれを書く中で、ああ私は自分のどんな思いすらも、
愛おしいものと思っているのだと感じた。
それは今までにはない感覚だった。

私の気持ちが無碍にされているという思い。
置いてけぼりになっている、寂しい悲しい、やりきれない思い。

気づいてほしいけど、気づくと余計に辛くなりそうで。
だから気づきたくなくて、見ないふりをしていたもの。
それらをいっぱいいっぱい見せられた。

何度も繰り返してきたそのパターンを、あの時もそうだったと回顧していく中で、
思い出したくもないたくさんのシーンを思い出す中で、
私は、それらの時に抱えていた同じ思いに気がついた。

どちらかというと私は、自分の気持ちは愛したいけれど、批判的にも見る方だった。
自分に対してのジャッジが強すぎる。
他人に対してのジャッジも強いから、相手を許せないところもある。
今もジャッジは強いのだと思う。


今まで自分に対して「こうあらねば」を強く出し過ぎていたのは、

他者に認められるためには、社会で生きていくためにはという思いだった。


でもそこはそうかもしれないしそうでもないかもしれないと、今は思う。
そこがはっきりしないのに、自分で「こうあらねば」とジャッジして、
自分の生き方を限定するのは、違うような気がしてきた。

私が慮るのは、他者に対してよりも自分が先ではないのか。

私はもっと自分の気持ちはどうなのかを、先に考えるほうがいいのではないのか、
と思い始めた。

それが一番の気づきで、変化である気がする。

自分の気持ちがポジであろうとネガであろうと、
それを一旦見て受け止めて、そうなんだ、そんなことを思ってるんだと
まずはそこからだなと思う。
自分が生み出した子=感情を、もっとちゃんとみてみたい。
そう思った。

正直、他者よりも自分の子がかわいいと感じる( ´艸`) どんな子でもね。
それが私の母性なんだよな。

それが何より自分らしいなぁと思うのでした。

そうそう。自分らしい行動ができると、自己肯定が進む。
気持ちがやわらかくなって、すっきりするのだ。

自分の直感も感じやすくなる。

それに気づいてからは、少し生きやすくなっている。