巡禮記3日目。
夜はちょこちょこ目が覚めた。
山Pで締めたはずが、気が高ぶっていたのだろう。
でも、それが今の私なので仕方がない。
今回のことは似たようなことを経験したことがある。
子ども会の会長を引き受けるかどうかという時のことだ。
私はその時条件付きで一旦OKした。私にもいろいろ事情がある。
体調も仕事も環境もどん底だった。
だが一定の条件がクリアできるならば、とお伝えした。
それができるなら、組織としても長に負担のかからない新しい組織体の在り方が模索できるかと思ったから。
それは私のように、しんどい母の心の救いになるんじゃないかと思ったからだ。
もっと気楽に子ども会の活動に参加できるんじゃないかと思ったからだ。
現に子ども会への参加は、地域でもぐんぐんと減ってきていた。
が、それを受けた人は、私が言った条件などすっかり忘れて、
私が引き受けると言ったというところだけを皆に伝えた。当然齟齬が起こる。
そもそも欠席裁判されて、受けるしかないような状態の中で私は受けたので、
条件が伴わなければしなくてもいい、そのくらいの自由度は私にももらう権利はあると思っていた。
が、その気持ちを汲んでくれたのは、半分くらいで、
条件が整わなかったのでしないと言い始めた私に、
後の半分は「一旦引き受けたのに」という視線を向けた。
数人が取りなしてくれ、結局見兼ねた他の方が会長職を担ってくれることとなった。
あの時の私は、体力的にも精神的にも受ければどうなるかわからなかった。
だから条件を出したのだ。私にとっては必死な譲歩案が、しかし全く理解してもらえなかった。それも私自身の健康を引き換えにした譲歩案だったのに。
バカだったと思う。あんな思いをするなら、最初から全く受けないとシャットアウトすれば、彼らにもわかりやすかったのだと思う。
でも、これは性分なのだ。
今回だって「気持ちはわかるから」を発動してしまった。
自分の気持ちを置き去りにした。
最終的に選んでいいんだと言われたけど、深夜にひっくり返すことはまた逆にものすごくめんどくさくて、嫌だった。
これをひっくり返したとしても、また面倒な事をしたと思うだろう。
どっちにしても私に傷がついたことは事実で、こうしたかったを突き通せば納得するものでもないから、気持ちがもう絡まりまくるのだ。
私が正しいことをしたいと思うのは、そうしておけば分かりやすいからだ。
しかし、「私はわかりやすくしてるのだから、こなかけてこないで!」って必死に防御しているのに、他者はやすやすと乗り越えて粉をかけていく。
繊細ゆえにいつもはシールド張ってる私は、今回の巡禮記では油断していた。
ルール守っているので、私がとやかく言われるはずはなかった。
一緒に回っている方々には、私は安心して、必要以上に思いをかけていたのだろう。
それもあって気持ちもわかるしと思ってしまった。
一つ思うのは、フライト時間は事前にお伝えしていたので、
その時点でその提案が出ていれば、私も友人とは緩い約束で期待をさせることもなかったし、参加者の方々も何も思わなかったのではないだろうかということ。
これは今後のこともあると思うので、運営さんにはお伝えしようと思う。
まためんどくさい女になるが。正論だと思うので。
結局ここに決着がついていないのだ。
私は納得できないことは消化できない。それに改めて気づいた3日目。
スルーするなら、自分の体内に入れないから、他人事にできるが、私は人一倍共感力も強くて、相手の気持ちを読んでしまう。
その行動で私は他者の思いを自分に入れてしまう。
消化できないものは、自家中毒のもとになる。
どこにもやりようのない思いは、結局自分に向けるしかない。
納得しよう消化しようとパワーと時間をかければかけるほど、私は疲弊していく。
巡禮記に行く前の私はそれを整理しようとしていた。
有限な時間をもっと自分の描く嬉しい未来のために使いたい。
不毛な時間は使いたくないと出来るだけ切り離してきた。
人付き合いをしなくなればその辺はなくなる。
病気でインドアになっていると家族としかメインにあわないのでその辺は随分と楽だったが、自分が自分を取り戻し、この世で歩こうとすれば、横槍は飛んでくる。
どう折り合いをつけるのか、ものすごく難しいのは、瞬時に自分の主張と思いをわかりやすく説明できないから。
きっとこれはこれまでの中でも課題だっただろう。
これで関係性を相当拗らせてきているはず。だからめんどくさい。
自分が関係を深く持ちたい人となら、この時間も必要だと思うかもしれないが。
納得しなくても、なくならなくてもいいんだよと先達さんは言ってくれた。
でも、じゃあどうすればいいの?
筋肉を動かす。呼吸をする。
気持ちを逸らす。思いつくのはこのくらい。
でも、それで私の置き去りにされた思いは成仏するのだろうか?
私はこの自分から派生した思いさえ子どものように愛おしいのだ。
だからそれを無下にする他者は許さないという気持ちが強い。強すぎる。
子を守る母のようだ。
自分しかそれを成仏させてあげる人はいないので。
そのことは痛いほどによくわかった。
もう少しこの辺は揺れていくのだろう。
許す許さないを「許さねば」と思ってやりたくない。
嫌なものは嫌は、これ以上飲み込みたくない。
戦うつもりはない。ただ好まないものを特別にこれ以上受け入れないでもいいのではないかと思うのだ。
それでなくても共感力の強い私は、かなり自分のスペースを他者に空け放している気がするので。
まずは、自分が生きやすくできるように、自分の環境(うちもそとも)整備したい。
以下メモしたもの。
感謝を感じるか。
応援者はいつか現れる。
自分を生き切る。
善悪で判断するのではなく。
納得するのはジャッジしてること。
もっと気楽に。
祈る人は守る人。
※今日の記事は、帰りの飛行機がかなり揺れたので、怖さにフォーカスしないように、集中して書いたものです。。
最初は、あそこに行ったここにいったを書こうと思っていたのに、結局自分の中の内観になりました。まあ決着ついてないからですね、自分の中が。
まあ思いに任せて出てくる言葉をつづりました。発見も気づきもあり。
やっぱり書くことは自分を客観的に見るいいツールだと思う。思いっきり主観的な文章を書いててなんですけど。