ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

奥底にある思いに気づく 2021.6.2

美容室は、いつも同じところに行く。
いつも私の髪を扱ってくれるのはOさん。
私より少し下の世代の女性。

Oさんはさすがプロで、
私の思いを受け止めながら
アドバイスをくれるので、
相談しながらメニューを決めている。

このところの私の髪の毛は、
パーマやラインでところどころいれたブリーチで傷んでいる。
そもそもの毛の量が多いので、余計に横に広がってそれが嫌。
オイルをつけてもその時だけよくて
すぐにカラカラに乾いた感じになる。

パーマをかける前は、
なんだかおとなしい感じが面白くなかった。
その度ことに、ラインのブリーチや、パーマを提案してくれるのがOさん。
Oさんにスタイリングしてもらったときにはおさまるのに、
家に帰って自分でやると、どうもうまくいかない。
それでも切りたて・色を入れたばかりの時にはどうにかなるのだけど、
日に焼けて色が抜けてとなると、手に負えなくなる。

という話を、愚痴モードで話すたびに、
Oさんが言う。
「そうね~。み。さんは毛の量が多いからね、広がりやすいよね。
でもね、み。さんはいいんですよ。
みなさん、年とってくると薄くなって立ち上がらないって、
毎回パーマかけられる人も多いんですよ。
さっきの方も、毎回パーマにされるんです。気になるからって。
み。さんは、まーったく心配する必要がないです。」って。

私の悩みは、他者の羨望。
ということですね。
なるほど。

わたしは「ない人もいるんだからあることを尊べ」と言われ方はあまり、
いやとても好きではなく、
割と最近までこの手の言葉を言われると、結構な割合でかみついていたのだが、
この頃のOさんから毎回言われる「み。さんはいいですよね」という言葉に、
「そうか、いいのか私」と思わされている。
これはなんでだろうか?

先日娘と電話で話をしていて、髪の毛の話になった時に、
彼女も同じく毛量が多いので、その悩みにお互い同意しまくっていた。
「そうか、私だけじゃないんだ」
と思えることは、結構私にとっては自分のコンプレックスを抑える効果があるらしい。
でもどうして?

「みんな我慢しているんだから、我慢しなさい」っていう言葉も大嫌いだったはずだ。
私は嫌だ我慢したくないということが問題なのに、みんなはどうであるかは関係ない。

私もいよいよ同調勢力に屈するようになったのか( ´艸`)

一つ考えられることは、
Oさんが言ってくれる「み。さんはいいよね」という言葉だ。
前回は、私と逆の悩みの方の話を枕に、み。さんはいいよねという言葉を言ってくれたけど、その時は「私とは関係ないじゃん」とは思わなかった。

私の悩みは、そうじゃない人から言わせれば贅沢だということ?
でもそれじゃ納得しない。私は私で悩んでいるんですもん。
贅沢だと思うのは私ではない。

私の悩みは、これをコンプレックスではなくて「いいもの」として自分が認識すれば、「いいもの」になる。
そんな気づきが見えたからかもしれない。

そうか。
誰かと比べて思うことも強いられるような言い方が納得できなかっただけなんだ。
誰かと比べるのその言葉に、優位性を感じることをも強要されているような気がして、
それも嫌だったのだ。
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小さい頃からずっと言われていて、いまだにあまり腑に落ちないことがあった。
「あんたよりもっとひどい境遇の人がいるんだから」
とか
「貧しい国の人たちはこんなもんじゃないよ」
とか
いうような言葉。

私よりも境遇的によくない家庭の子どもさんがいたり、
貧しい国の人たちがいるかもしれないというのは理解できる。
でも、「私が我慢したり、私が自分のことを辛いと思うことと、
その人たちが存在することは関係ないんじゃないか」。
どうにも腑に落ちず、納得できなかったのは、そこだった。

そしてそういう言葉は
「あなたはそういう人たちよりも恵まれているからいいじゃない」
という優越感を与える言葉のような気がして、
私はそういう言葉を投げられるのが、ものすごく嫌だったなぁ、
ということを思い出していた。
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こんな話をするとよく「理屈っぽい」と言われていたな。
でも、こういう風に言葉にこだわるのは私らしい。

で、そんな言葉に超こだわりのある私が、
Oさんが言う「み。さんはいいよね」を受け止めることができるのは、

自分のもともと持っているものを、他者を貶めた上に自分が優位を持たなくてもいい考え方で、プラスに見ることができるからなのだろう。

とても微妙だし、人によっては「それって捉え方だけでしょ」と
思われるかもしれないことですが、
「単純にいいよね」って言ってもらえることが、
私には視点を変えることが出来る大きなポイントだったのだ
ということが理解できたのは大きい。

条件付きで、誰かとの比較の上に優位を感じない。
わたしならではを素朴に自分で「いいのかも」と思えることは、
とても嬉しいことだ。

ここはきっと人それぞれ。
今回、自分の譲れない大切にしたい思いにはこういう
「公平性」とか「誰かが誰かの犠牲にならない」とかいうことが
やはり大きく横たわっているのだなということがよくわかった。
久しぶりに自分の奥底まで潜った気がする。
そして「自分の持ち物に愛を持っていい」と思えたことは、収穫。
幼稚園児みたいだけど、自分で自分を認めていくことをコツコツを学びなおしている感あり。

何気ない言葉にもどこかひっかかりがある言葉が、誰にでも一つや二つあると思う。
それがなぜひっかかるのかに、自分の奥底にあるこだわりや思いは関連しているはず。
自分を知るには、そういうひっかかりを見ていくといいと思う。