ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

娘が帰りました、ということでこの間の回顧録。

とうとうこの日がやってきた。

12月20日から(多分)今日までステイしてくれていた娘が、山形に帰る日。
嫁にも出してないのになぁとか、今更思う笑
仕事を辞めて(辞めたのは本人が潮時というところでの希望だけど)、福岡に帰ってきてくれて、実質主婦業&介護手伝いをしてもらった4ケ月半。

この半年はいろいろありすぎた。
ことの発端は、夏休みに娘が彼と帰省したその日に母が緊急入院。そのちょっと前に夫が入院していて、その辺から私が仕事も含めて抱え込みきらなくなって、9月にわたしがとうとう壊れた。

当初は、「娘が辞めるなら、うちも大変だししばらくこっちに来てもらえたらいいなぁ、娘も一生山形に居るかということも含めて、今後の人生を自分の生まれ育った福岡で考えられればいいんじゃないかな。」くらいに思って、勧めてみたのだけど、実際自分がこんなにがっつり病気して、家のことやら母の介護系まで見てもらうことになろうとは思ってもみてなかった。

9月から毎月「感冒性胃腸炎」を患い、12月のクリスマスイブ前後だけは奇跡的に元気になったものの以降ダウン。この月には2度「感冒性胃腸炎」の診断。その度に絶食一週間。そもそも食べられないし水分と酵素ジュースで生きながらえていた。年末もお正月も食べられず、いよいよおかしいぞと1月明けにかかりつけの病院に相談すると「過敏性腸症候群」ではないかと診断され、霧が晴れたようだった。(結果的に感冒性胃腸炎というのは誤診だったというわけだ・・・)
そこから本格的に休養に入ったが、食べられるようにはなって来ても、劇的には治らない。波があって、食べられる時とそうでない時がある。

夫の調子は私よりは波が少ないが、それでも不調が続き、検査をすると手術が必要な病気であることがわかった。

母親は年明けに手術をし、その後転院してしばらくすると痴呆がぐっと進み、要介護3にまでなった。異常行動が増え、口をぽかんと開け、食事や薬を嫌がり、家族への呼び出しがかかるようになってきた。3日に1回は病院通いの毎日。
老健への見学と申し込み、母の家の撤去も決めて、いるものいらないものの選定をし、業者さんに頼み、撤去した。

体調が悪い中、そういうことをしなくてはならないので、私の身体は私のことだけを考えるなんてできなかった。それでも体は「自分のことを優先しろ」とばかりに自分を痛めつけていく。考え方を変えるしかなかった。

自分のために私は、散歩をしたり、瞑想をしたり、自然にふれたり、本を読んだり、神仏に拝んだり、とにかくいろんなことをした。
娘には家事全般を頼み、夫にも息子にもいろんなことを頼み、自分をいたわったが、それ以上に母の介護は直接的ではなくてもかなりハードだった。というよりも、母親の痴呆という事実が私の心をわしづかみにした様だった。

私しかやる人はいない。法定的にはそうでも、私ができなければどうしようもない。誰かがするしかない。したくない。でも逃げられない。
行き場のなくなった私の心は、私の身体を痛めつけることで憂さを晴らしていたのかもしれない。

そんな私も、それでも自分を生きたいと思うことが優先できることもあった。
子どもたちが楽しそうに笑いあっていると、それだけでありがたい気持ちになる。
ここに自分が居ていいんだという感じがして、心から安らげた。

息子は受験生だったことも、今回追い打ちをかけた。
彼は自力で頑張り、無事自分で合格を勝ち取った。
それに今回の受験を通して、自分の進路ややりたいことに気づき、照準を定めることを理解したようだった。
私もまだ最初は元気だったので、相談にも乗れていたが徐々に難しくなった時、彼の息抜きに娘が大きく関与してくれたことが、とてもありがたかった。
おそらく娘がきてくれていたから、彼も安心して勉強に集中できる環境を自分で作れたのだろうと思う。
夫も歴史の解説を毎日のようにしてくれていたなあ。
私は彼の勉強を見る余裕なんて全くなかったので、助かった。

今回一番のチャレンジは、私が入院したことだった。
3月10日から一週間ほど、とにかくお腹が痛くて具合が悪い時間が長く続いた。寝る時しか安らげない。主治医の先生に診てもらって薬の飲み方を指導してもらったら、たちどころに収まったが、とにかく体をいじめてしまっていたので衰弱し、私はもうこれで死ぬのではないかと思っていたくらいだった。
そのくらいきつかったし、何も食べられない何もできない日々だった。
それで、体を休めるためと安心のための検査のためにと、2週間の入院をすることにした。
これは私にとって大きなチャレンジだった。
私が2週間家を空けることは、家族にとっては初だ。しかも母親の家の撤去の立ち合い、夫の入院と手術の立ち合いを娘に託さなければ達成できないことだったからだ。
娘は快く了承してくれ、胸をたたいて大丈夫です!と言ってくれたので、安心して入院できた。非常にありがたく頼もしかった。

入院中、薬が中止になって、体調が著しく悪くなったことも、自分の状況を理解する経験となった。今の私には薬を使いながら、自分を調整していく必要がある。そのことを自分がよく理解していないとだめだということが、よくわかった。

約2週間の入院を経て私は退院し、6日目の今日、娘は山形に戻っていった。

娘が帰ってきて、やりはじめたことがいくつかある。
・彼女の提案で、マスカラをつけるようになった。
たまにやってはいたが、いつも後がめんどくさくて続かなかった。
今回は、とにかくやつれてしまったので少しでもと思う気持ちも大きいが、自分にちゃんと手をかけて上げないとという気持ちが強くて、続いている。

・カラオケが楽しい。
息子娘と3人で初めてカラオケに行った、ってのが結局1回だけだったのだが、
好きな歌を聞くだけではなくとにかく声を出して歌うというのが、気分的にも身体的にもとてもいいというのを体感した。
自分だけだと自分の好きなものしかセレクトしないが、子らと行くと全く知らない曲もあるが、好みがかぶっているものも結構あって、一緒に歌えたりもする。それが面白かった。もう一度行きたいと言っていたが、最後の週は私が風邪をひき歌える状態になかった。残念。

・ネタを共有し合う。
娘がことのほかお笑い系が好きなので、テレビのセレクトがそっち系が多い。かつ息子も高校生になり堂々とスマホデビューにもなり、ツイッターやLINEでの共有もしやすくなったというのもある。
どこかに行くと写真を撮り、家族メッセージグループに共有する。とかなんだけど、
写真だけでなく、情報の共有ややり取りがしやすくなった。
これは心理的にとても軽くなった。

・予定を立てずに、思いついたら動く。
娘自体がそういうことが好きなタイプ。なので、私も誘いやすかったし、彼女もそうだったようだ。
暇な二人ということも言えたが、家に居ても何かをしようかとか、料理の相談もしやすかった。
(そもそも自分ってそうだったなぁと思いだした。
私には極端なところがあって、これは父親譲りなところもあるが、思い立ったら吉日的なとこと、しっかりスケジュールを立ててやりたいところとがある。)

・仏壇との日々。
母宅を処分したので、うちに位牌を持ってきて仏壇のようにお供えをしている。
朝晩そこでお参りをすることが日課となった。
息子がわかる範囲の先祖の方の名前を色紙に書いてくれ、それを位牌代わりに置いている。あとは父、母方の祖母、伯父の位牌があるので、毎日お茶をあげ、ご飯を炊いたら上げ、お線香をあげてお参りをする。
何もない時に比べて、格段に手を合わせることが増えた。

長々となったが、これでやっと終わった感がある。

夫の退院も今週末に決まったそうだ。
私の今年度初出勤も明後日。
新しい新年度が、やっと始まる、始められる、そんな感じでいる。