ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

幸せは義務だ 2019.05.18

はてなブログで、仲良くしていただいているみーさんの記事は、
いつも読んで「もっともだ」とうんうん頷きながら読むのですが、
今日のもほんとにそうだなと思いました。

今日のタイトルも、みーさんからそのままいただきました~。
みーさん、勝手にすみません。だっていい言葉なんですもん。

miporintama.hatenablog.com

幸せは義務??

一瞬ぎょっとしそうな言葉ですが、
それって、「幸せ」はものすごいもの、遠くにあるものだと思っていたら、
余計に「幸せ」と「義務」がつながらないかもしれません。

「幸せになりたい」
皆がそう思うと思います。
でもそう思った瞬間に、幸せは遠いものになってしまうかもしれません。
「なりたい」だと、今はそうじゃないという前提になるので。
「幸せになる」も、言葉的に何となく「気持ちが頑張っている」というイメージがある。

「幸せは義務だ」という言葉には、
「幸せになることは、人間としての自分がやるべき基本的な仕事である」って言っているような気がします。
まあ、言葉のニュアンスは人それぞれなので、
ここに書いているのは、私が思うことですが。

「幸せは義務だ」という言葉には、
幸せは、誰にでも平等に与えられていて、
それを求めて歩むことは誰にでもできること。
そんな意味も込められている気がします。
「幸せは義務だ」が消化しきれなければ、「幸せになることは義務だ」だとどうでしょう。「幸せになってもいいんだ~」と思えるかも。

ただ、もっと踏み込んで言うと、
誰にでも与えられているその権利を、真摯に実行する、真摯に生きるという、生きる決意のようなものも、必要だと思うのです。

どんなことをしても自由だし、幸せに生きることはできる。

でも、せっかく与えられた生を、自分らしく生きることを、魂は学びとして求めている気がします。
そのために、魂はわざわざ制限のある人間の身体に宿る体験をしにきているのだから。

そう仮定するならば、今の私の特性を活かして、
私が望む幸せである「在りたい世界」や「在りたい姿」を形にすることも幸せだし、
その過程も幸せだし、それを思いついた今も幸せなのですよね。

こう在りたいに対し、今の自分を「そうじゃないから不幸せ」という定義にはしたくない。
こう在りたいに対し、その過程を「こう在りたいになっていないから不幸せ」という定義にはしたくない。

「こう在りたい」に対し、今の自分に足りていないものがあるならば、
そうなる努力をすることは大切だと思います。
だけど、今の自分に足りていないものがあるからといって、
今の自分が「幸せでない・不幸せである」というわけではないことを、私たちはもっと自覚した方がいい気がしています。
私たちというか、私なんですけどね。

なんかすっきりした~。
否定しなくていいのよ、私^^

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