ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

お弁当づくりの話 2019.1.30

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今日も引き続き、おなかの不調。
朝起きた時にはそうでもなかったのに、徐々に「あれ?もしかしてよくない?」という感じ。
でも、今日は母親を病院に連れていく日。動けるからどうにかなるや~と思って、行ってきた。歩くのはきつかったので、行き帰りはバスにした。


行きは、バレンタインデー仕様のバス。
かなりな物量の愛があふれている( ´艸`)
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さて病院から施設に連れて帰ったら、私のおなかがじくじくっとした。
本当は、もう少し話をしながら、マッサージをしてあげたかったのだけど、
私の身体的にはしんどい。心の中でごめんなさいをして、「おなか痛いけん、今日は帰るね~」と帰ってきた。
私が声に出して「ごめんね」といえば、母は逆に気にするだろうと思った。
言ってみないとわからないことだけれど。

帰りのバスはスムーズに来た。
そして、またバレンタインデー仕様のバスだったwww

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ついている、のか?笑

===
今日はお弁当の話。

4月から息子が高校生になって、毎日お弁当が必要になった。
中学までは給食があって、楽をさせてもらった。
ということで、最近の私は毎日お弁当を作っている。
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↑最近のお弁当。

「私はいつから弁当を作っているんだ?」と、今日お風呂の中で考えてみたら、
一番最初は、娘が小学校一年生になった学童の夏休みだった。

小学生女子の弁当は、弁当箱自体が小さいので、おかずをいっぱい入れようとしても入らない。なので、小さい単位でおかずを作るのが手間だった。
でも私は種類がたくさんある方が好きなので、頑張って入れていたな。
といっても、量が量なので、晩御飯のおかずをちょっと取っておく作戦でほぼ事足りた。たまには冷食も使った。
子どもたちの中でブームがあって「グラタンにおみくじがあるやつ」が流行ると、娘も持って行きたがったので、そういう要望にはできるだけ答えた。

懐かしいな。

さて、お弁当作りを再開した私が、決めていることは3つほどある。
作り続けるためのポリシーみたいなもんだ。

1.手作りにこだわらない。
私は料理が好きだし、家族には美味しい健康的なご飯を作りたいと思っている。
でも、毎日の食事づくりは、自分が負担になるとアウトだと思ってる。
なので、作ることを頑張りすぎないことを心掛けている。
負担になると、料理や空気に伝染しそうな気がして。
結果的に家族に害のあるご飯を食べさせることになるのは、嫌だ。

子どもが小さい頃は時間にも追われていたし、思う以上に頑張って作っていた。
品数が少ないのが嫌だった。
これは自分が品数が多い方が好きで、食事のバランスも取れるから、つい作ってしまうことからくるのだけど、
品数が多いということは料理の時間がかかるということで、
これは結局自分の首を絞めることでもあった。
少しずつ品数を減らすことには成功したが、
それを自分に納得させるのに7年くらいかかったかな。

で、弁当もそう。
そもそも、弁当を作るという手間が一つ増えるわけだから、
手作りにこだわって、自分の健康損なっても意味ないじゃんって思った。
娘の弁当を作る時から、これはそう決めている。
なので冷食も使う。お弁当用のミートボールなんてのも買う。

2.朝作ることにこだわらない。
これは、この4月から、息子の高校生弁当を作り出してからだ。
高校生は朝が早い。特に福岡の公立高校は朝補習、つまり0時限があるのだ。
7時前には家を出ないと間に合わない。
私の母も、弟の高校が遠かったので朝4時起きとかしていたらしいが、
そんなの私には無理。
朝がまるで起きれない。
7時でも厳しい私が、そんなことをしたら、やっと治った体調がまた狂う。
友人の助言もあり、
夜に作っておく作戦にした。

これを始めるには、ちょっと自分の中では葛藤があった。
「お母さんが早起きして、出来立てのお弁当を持たせて送り出すことを美徳とする」という理想のイメージが私の中にあったからだ。
というか、そういうのが正だという思い込みがあったのだ。
この理想のイメージは、顕在的ではなかったが、自分の体調を優先しようとする時に出てきて、自分の中ではすぐには踏み切れなかった。
「いいおかあさんじゃない私」になるのが怖かった。そうみられたくなかった。

でも、息子はあっけらかんとしていて、「夜弁当作るのいいよ」という。
「おかあちゃん、朝全くおきれんかもしれないけど、その時はご飯も詰めていってね」というと「OK~」
てな感じで、弁当作りはとりあえず毎日進んでいる。

私も随分体調も落ち着いてきて、朝起きれるようになってきたので、
おかずは相変わらず晩に作って詰めて、冷蔵庫に入れておくが、
朝起きて温めて、ご飯は朝から詰めて、お弁当だけじゃ足りないらしいので、おにぎりも作って持たせている。高校生男子はよく食べる。
娘の高校時代は、小さい弁当箱でも食べきれないからと言っておにぎりにして、
最終的にはもう要らないとなった。

彼女の場合は、お友だちと自由に学食やお店やに行きたかったみたいで^^

話は今に戻るが、
ちなみに、朝ご飯にはまだ私は起きれないので、朝は夫が息子に食べさせてくれている。

1と2は、つまりは、作ることを無理しないということ。
これは、肝に銘じている。
自分を優先しないと、誰も幸せにできない。


3.美味しく食べてる顔を想像して作る。
これは、今日初めて自分の思いを言語化した。
私の原動力がこれなのだ。

今日、息子は学校を休んでいた。
私が弁当を作った後に、喉と頭が痛いと言い、休みを決めたようだった。

私が母のところから帰宅して、しばらくして息子が起き出した。弁当を食べるというので、付き合ってしゃべっていた。

見てると、この人、本当に美味しそうに食べるんだ。
ちいさいころから食欲は旺盛で、よく食べる人だけど、
「うまっ!」とか言いながら、にこにこもぐもぐしている。
そういう姿をみてると、作った本人じゃなくても嬉しいものだ(本人だけど)。

今日の晩御飯はまた特にお気に召したようで、
「鶏の照り焼きおいし~!この炒め物も絶妙!
で、こっちのおかずがちょっとさっぱりしてて合うんよね」
「おかーちゃんの作る味噌汁は、めっちゃご飯に合うんよね~」
と絶賛された(笑)
病人とは思えない。

娘も美味しい顔で食べる子だったなーと思い出し、(娘は家を出ているので過去形)
私はこどもたちの美味しい顔に救われて、ご飯作りをしてきたんだなぁと、今日気づいたのだった。
いや、そもそもそれがあったから頑張って弁当を作ってきたので、
そのもやっとした思いを、やっと今日、言語化できたのだった。
美味しそうに食べてくれる存在は、大きい。
私の力になってるんだなぁとつくづく感じた。ありがたいものだ。

美味しい顔がみたいから、彼らの好きなものは意識して入れている。
苦手なものは極力入れない。体にいいものでも入れない。

お弁当の時間に苦手なものがあると、テンションが下がるからだ。
逆に好きなものがあれば上がる。それは自分の経験でよくわかっている。
私も高校の時に母にオーダーしたのは「おかずは何でもいいから、おにぎりとたまご焼きだけは入れてください」だった。
おにぎりとたまご焼きがあったら、私は幸せな人だった。
好きなものがあれば、苦手なものでもカバーできた。

ここまで書いて、
まあ、こだわりのあること!と自分で思った。

でも食べることは生きること。
食べることは、人生を豊かにすること。

だからこそ、こだわりすぎずに、こだわることが大事かなって思う。

こだわりは、強すぎないこと。

こだわりたいけど、こだわれない時には、あっさりあきらめることも必要。

ということで、今日は終わり。やっぱり長くなってしまった。



願いを弛める、視点を変える 2019.1.29

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実は、今日は体調が落ちている。
おなかの調子も。。
この1ケ月ほど便秘気味だったのだが、今日は下してしまった。
当然食欲もないので、固形物ではないプロテインやヨーグルト、
甘酒を飲んだりしている。
お腹はなってきたので、すいてはいそうだけど、あまり食べたいとは思わない。

寒気がするので、腰にカイロを貼ってみた。
ビタミンEが切れているので、冷えが強くなっているのかもなと思う。
病院からのビタミンE、オーダーミスなのか、足りなくなってしまった。
「13日分ください」→「13回分ね」となった可能性あり。
今更言っても仕方ないので、今度外出する際に、薬局をみてみようとは思っている。

更に今日の体調の話を続ける。
朝起きると、右手がしびれていた。
この頃右手(というか腕)はよくしびれる感じがある。
寝る時の体制が良くないのかなと思ったりしているが、
いまいち原因はわからない。
今日はその腕のしびれがとても気になって、
「これって何かの病気の可能性もあるな」と思い出し、検索してみたり。

これって、連鎖してるんじゃ。

不安定な時って、シーソーのように不安な思いが思いを呼んで、勝手に片方重くなってゆく。
==
からだの調子が悪いのには、メンタルに理由があることが多い。
その予兆は感じていた。

この数日、また私の前に顕在化してきた課題に気づき、
やるしかないなと着手していたのだけど、
見たくない自分をやっぱり感じていたのだと思う。
うまくいかない現状を見て、どうすればうまくいくのだろうと考え、
答えが出ず、思いつくことをするしかないと開き直ったところだったが、
自分の中で抵抗する自分もまだいて、
みじめな自分をみたくなかったり、
(これは自分でみじめだと思っているんだろうと、書きながら思ったけど)
従来の考え方で、あがいている自分がいる。


ameblo.jp

今日は、ウガンドゥブチの日。
願いを取り下げる日だと言われています。
どうして、願い事を取り下げるのか。

『願い』とは、
「叶っていないと信じたい気持ち」
だからです。

『豊かになりたい』は、
いま豊かだと信じたくない気持ち。
『愛されたい』は、
いま愛されてないと信じたい気持ち。
『もっと欲しい』は、
いま十分じゃないと信じたい気持ち。

相変わらず僕ら、おかしなことをしてますね(笑)

叶っていないと信じたいその気持ちを、
一度『ほどく』ことの大切さを、
古来の沖縄の先祖たちは知っていたようです。

あなたがいま握りしめてる
「叶っていないと信じたいこと(願い)」を、
今日だけでも取り下げてみませんか?

ある。
に目を向けたら、
あるもんです。

この素晴らしい日々に感謝を。

 

 昨日友人と話をしている途中に気づいたこと。
「これまで気づいていなかったけど、いろんな人に支えられて助けられて生きてきたんだな」と。
いや、気づいてはいた。でも今回は、不意にそのことに感謝の思いが沸き立ってきたのだった。

「愛されている」と感じるのもこの感じなのだろうか。
行動や言葉から感じるものとは違うところで、感じるもの気づくことがある。

思い方、考え方、モノの見方を変えることで、ああそうかと思うこと、あれ、これってって気づくことがある。

引用したさとうみつろうさんの記事では、

『願い』とは、
「叶っていないと信じたい気持ち」

『豊かになりたい』は、
いま豊かだと信じたくない気持ち。
『愛されたい』は、
いま愛されてないと信じたい気持ち。
『もっと欲しい』は、
いま十分じゃないと信じたい気持ち。

結局、今の「~したい」を否定しているわけですね。
「叶っていないよ。」
「今豊かじゃないよ。」
「今愛されてないよ。」
「今十分じゃないよ。」
って。

本当にそう思っている感じているから、そういう言葉が出るし、
だから、自分の欲として「欲しいです」って願うわけだけど、

それがだめだって話でもなくて、

今日は、そういう風にガチっと思い込んでる自分の思いを、
「まあまあ、弛めてみたら?」という日のようだ。

弛めてみたら、
「あれ?これはあるね」ってあることがみえてくる。
自分が希望している「こんなのほしい」ってのはないかもしれない。
でも、自分の中にある確かなもの。
例えば経験とか、思いとか、感情とかでもいい。
それはあると思えるし、みえていなかったものも実はみえてなかっただけで、
ああ、そういえばこんなことも、とか思い出したりすることもあるわけで。

note.mu
ミユさんの、今日の記事にあった文章がとてもよかった。

わたしはいつも、もし自分が地球外知的生命体で、砂漠のような暗い星に住む半物質の幽霊みたいな身体を持ったエイリアンだとして、同じ星の同種の生命体たちからずっと、あるおとぎ話をテレパシーで聞かされているという設定で想像を巡らせる。(細かい設定に矛盾がいろいろあるのには目をつぶって・・)

そのおとぎ話とは、この広い宇宙の何処かに「ちきゅう」という場所があって、そこは光と色とにあふれていて、温度があって、木があり、花があり、

 続きは長くなるのでブログを見に行ってほしいのですが、
ファンタジーだ。妄想といってもいいのだろう。
見る目を「今人間として生きている自分」じゃないところに置くと、
アトラクションを味わっているような気持ちになれる。

 

今の目の前の世界に感動できないとしたら、それは受け取る側が過去を引きずっているからだ。同じわたしたちの感性で、設定を変えるとこんなにも違って見えるのだから・・・!

(中略)

それが本当かどうかなんて、まったく重要じゃないんだと思う。
もし自由に考えてよいのだとしたら、もし、こうだったら、もし、ああだったら、わたしは何を思うだろう!と思うだけで人の感性は目を覚ます。

人は本を読んでいて、その話がフィクションだと知っていても涙を流す。
その人の思考ではフィクションのままでも、感性では本当の世界になる。
だから、自分が何を感じるのかは、自分の好きにできるんだ。

世界をどう見るか、それは自分の自由にできる。
いつの間にか忘れてしまっていた、自由な想像力。
みなさんは、使っていますか。

どんな想像だって、それを心にリアルに映し出したとき、それによって世界が違って見えるなら、それはファンタジーが魔法になる瞬間だと思う。
もし今すぐ使える魔法があるとしたら、このことだとわたしは思う。
それを使うと、世界が輝いて見えるだなんて、本物の魔法だ!

 ミユさんがかいてあることと、さとうさんが書いてあることは、

リンクするような気がする。


さとうさんのいう”「ある」に目を向ける”は、
あるかどうかわからなくても、あると設定して考えるということだ。
ミユさんは、その方法としてファンタジーの世界にいるように設定を変えると、
わかりやすく、今の自分を俯瞰してみることができるというものだろう。

私はこのことが頭で理解ができているんだけど、
からだに不調が出ているということは、

身体や心では「願い」にしがみついているのかもしれない。

まあちょっと意識的に、弛めて、
からだにごめんね~とよしよしをします。

ご飯作ります。

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めくると開く優しい世界 2019.1.29

タイトルからするとなんのこっちゃって感じだけど、
新聞の話です。
今日、FBに書いた記事の転載です。
FBに書くよりもブログネタっぽいので、最初からブログでもよかったんだけど、
なんとなくFBに書きたくなってしまった。
誰かに読んでほしかったのかもしれない。

==
家族の中で新聞を読むのが私一人になっても、新聞購読をやめられない理由の一つに、こういう記事と不意に対面できるからというのがある。

ネットで見る記事は、ニュースならネットが早い。
仕事や関連分野の情報も、FBやSNSで濃いものが拾える。
でも、必要なものだけ、っていうのはなんだか味気ない。

毎日の生活にどうしても必要なわけではないけど、ってものがある。
今日なんか、新聞を開いたら、ばーんと佐藤正午さんの文章が並んでいて、そうするとおおっ!と勝手に目が行き、読んでしまう。

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佐藤正午さんは好きな作家だからなおさらだけど、読んだことのない作家さんの文章に出会える場合も多く、新聞で読んで面白そうだと思ってその作家の本を買うことも多い。
私にとって、新聞はそういう出会いの場なのだろう。

新聞をパラパラとめくっていて見つけるものと、ネットでスクロールしながら見つけるものが、微妙に違うように感じるのはなぜだろう。

新聞擁護者では決してないのだが、いつもなら目に求めないようなものが、新聞を目にすると飛び込んでくる可能性があるから、それを欲しているんだろうなと思う。本屋さんに行く感覚とそれはよく似ている。動く活字と動かない活字の違いはなんなんだろう?

新聞購読をやめられない理由のもう一つは、
そういう感覚を、息子にも感じてほしいと思っているから。
彼は新聞欄すらも読まないけど(テレビで番組表が見れるから必要がないみたい)、新聞がある生活、親が読んでいる姿は見せておきたいと思っている。

今日の西日本新聞北九州市長選がなかったら、一面嵐になっていたかも?笑f:id:miww55:20190128234635j:image

 

思いをカタチにして表現すること 2019.1.27

昨日は帰りも遅くて書けませんでした~。
帰ったらすぐ、3年A組にハマってしまったので。

3年A組、面白いです。
娘からは「おかーちゃんが見てるなんて意外」って言われましたけど。
確かに、私はサスペンス系は苦手です。
人が死ぬの見るの嫌だし、血を見るのも嫌。恐怖感を感じるのも嫌。
でも、このドラマはそういうのじゃないんですよ。
血も、暴力も、破壊も、人が死ぬのもあるけどね(結果的に死んでなかったけどね)。

主人公の菅田将暉演じる柊先生が、かなり意図的に、卒業前10日に3年A組を人質に立てこもり、「俺の授業」を始める。

先が読めないストーリーって、ワクワクする。
3年A組的にいうと、#毎週日曜日はゾクゾクの日

私は、どこに本質があるの?真実は何?ってのを追求するのが好きなんだよね。

菅田将暉くんと永野芽衣ちゃんは、個人的に好きな俳優さんなので、というのもある。

あ、完璧に好きなものを語るモードになってしまいました。
おまけに会話調ですね。

===
ここから、いつもの感じに戻す。
基本、私は、「だ、である」調で書く。
「ですます」は、嫌いじゃないが、なんとなく締まらない。
「ですですです」になりがちで、どうも自分の感情を乗せにくい。
つい「~なんだよなぁ」って書いてしまう。

このブログは、自分の思いをぶっちゃげて書き、冷静にみたいから書いているので、
ですます、な会話調だと、相手を意識してしまうからかもしれない。

前置きが長い~ヽ(´Д`

昨日は、私がやっているレゴシリアスプレイのファシリテーター仲間のプチ練成会&懇親会。

 ファシリになってから、もう4年になろうとしている。
ファシリになる前、それまでもLSPはWSや講義で使ってはいたが、ファシリの研修を受けてこのメソッドが非常に深く、人間の本質のところまでアプローチできるツールであることを実感したのだった。
それで、九州地区のメンバーと月1のプチ練成会という勉強会を仲間と始めた。
もう2年強。そんなに経つのかと思った。

今回は、他地域からのゲストも多かったので懇親会も兼ねて、飲みながら2つ作品を作りシェアした。
1つめは自己紹介。
2つめは、我々がやっているものがもっと面白いものになるには?というお題。
写真は、2つめのお題の私の作品。

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緑のプレートは、普通はベースに使うので、机に置いて作品を並べるために使うものだ。

今回、私は、それを横に倒して立ててみた。

メソッドの中心となるものは、変わらず大切に真ん中にある。赤のブロックの部分だ。
これは、横にしても真ん中にあった。
最初にこれを作って、横にしても位置関係が変わらないのを確認した時、なんだかほっとした。大きなベースプレートを動かしても、真ん中にある大切なものは変わらない。
これを見た時、何をしても大丈夫。そんな気がしたのだ。

だから、そこから派生するものはどんな風に伸びてもいいんじゃないか。
裏からみてもいいし、パーツを分断して他のツールと合体させてもいいだろう。
そう思えた。

「こうあるべき」「こう使わなければ」というのに縛られずに、
メソッドが大切にしている基本の思いから外れなければ、
目的としての思いからはずれなければ、

もっと自由度があるのではないかと思うのだ。

作っていて思ったのは、
これは自分の人生における願望でもあるということだった。


作るもの、表現するものには、やはり自分が出る。自分の思いが投影される。

そして、作ったものを誰かとシェアすることで、自分の思いがより言語化されて、自分の中に落ちていく。

他の人の作品を見て、シェアの言葉を聞いて、なるほどと思う。
共感したり、刺激を受けたり、する。表現の仕方もそれぞれだ。

今回私がこの作品を作るに至ったのは、
私の素にはなかった要素がたくさんある。

学生がこういうベースプレートの使い方をしていたこと。
誰かがこんな立て方をしていたこと。
それらをみていて、自分もやってみようとふと思って作ったという経緯がある。
自分の全くのオリジナルではない。
が、そういうやり方があるんだと思い、それを使うことは知識を得て活用することだ。
それが自分の言葉で解釈されるなら、それは自分のものになる。

長年やってきて、やってきたことは無駄になっていないなと思った。
私にはなかった視点が、私のものになっている。
それは嬉しい驚きだ。
自分もまた変化できている。

ファシリテーター同士で、「そのモデルは面白いね~」なんて言い合いながらのシェアも、「あの表現いいな」とインプットされていくので刺激を受ける。
あの表現、私のいつに出てくるのかな。昨日も面白いものがたくさんあった。

こういうリアルな勉強会で、手を動かし作ることは、私たちの血肉になるのだと思う。
お互いを知ることもだし、相手が自分の鏡になってくれることも、大いにある。

病気の時には一時お休みをしたが、
この会にはできるだけ参加していきたい。
そして、このメソッドを使ったものは、広く世間に広めたい。
これで生きづらさを感じている人が、少し楽になれるような気がしているから。
実際私がそうだから。

どう広めるかが問題だ。
私の仕事として、やっていけるのがベスト。
私だけでなく、チームで広げていけるのが理想だ。
私の漕ぐ船に乗ってくれる人はどんな人だろう。
どんな人を私はクルーとして載せたいのだろう。

潜在意識の力を頼みにする 2019.1.25

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一つ問題をクリアすると、また次が出てくる。

「試練」という言葉は、自分の外から来る矢や壁のことだとすると、
今私が向き合わざるを得ないものは、「試練」ではない。
自分の中にある恐れや不安や、そこから出てくるの。
なんだろう。やっぱり「問題」?
いや、「課題」が一番しっくりくるかもしれない。

そんなことを考えるのは、今ぐらぐらしてるから。

安定しているつもりの日々が、この1週間ほど怪しくなってきていた。
からだの調子が悪いわけではなかったが、よくもない。
呼吸が浅いなぁとかおなかが固いなとか、
歯のことも重なって、快食ができなくなっていた。

夜断食を3日間したが、その続きをやめたことも、この不調のため。
(夜断食自体はわるくないんですよ。体調次第では続けてもよかったんですが、もともと2日のつもりでいたのを3日間に延長したので、だからなのか??よくわかってません)

私は、思いに消化ができないとからだに来るみたいで(と今更気づいたことだが^^;)
おそらく、今の不調はそれにあたるのだろうと思われる。
わたしのからだはよくできている。感心する。

今、ひとつ心に大きく影になることがある。
昔からこれは私の大きな問題だった。
今、それが解決というか乗り越える?受容する?という「課題」としてでーんと私の前にのしかかっている。

何年か前も、この問題をクリアしようとして、できなかった。
クリアしたけど、数年間どうにかやって、でも続かなかった。

私の自信のなさが、このハードルの前に立つ事すら躊躇させる。

そうも言ってらんない状態で、

自分は自分でいいんだと思う。
結局自分にしかなれないのだから、

そんな今の自分の能力やできることを活かせる、そういう場・環境、人、タイミング、お金との出会いがほしい。

何でもいいわけじゃない。

自分がやりたいことはある。望む方向もある。
そこに進むために、何をどうすればいいかも含め、

自分の潜在意識が何を引っ張ってくるのかを待っている。
私に「ふと」と思わせるのはいつも私の潜在意識だ。

(もしかしたら神さまだったり仏様だったり先祖の方々だったりするかもしれない~そこはよくわからない)

私の潜在意識から、意識として立ち上らせるものが出てきて、私がそれをキャッチする、そのタイミングが重要なので、
私は自分の感覚を研ぎ澄まして、思いつくことを今やって準備をしているところだ。

然るべき時に然るべきものはやってくる。
ただ、それを口を開けて待つのではなく、「これがキャッチしたいの」って思うことも必要だと思っている。

とりあえず、名刺は作り直した。
といっても、ちょっと変えただけだけど。

準備ができたら、さて私はどこに行こう。

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地味にコツコツと~2019.1.25

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今日は、2週間ぶりの歯医者だった。
歯医者ネタは、別ブログで書いているので、
詳細はそちらで書くつもり。
ま、ともかく、今日はおそらくその余波で、非常に疲れてしまったのだった。

午前中、歯医者に行く前にリビングのホットカーペットでうとうとしていたので、
漫然とした疲れはあったのかもしれないけど。

ああ、しかし、歯医者の痛みの中ではNo1か2を争うくらい、今日は痛かった。
ううう。


そんな私の叫びをあざ笑うかのように、モニター画面からは、
「西欧の国では美容室に行くように歯医者に行くので、歯医者が怖いってイメージはないんですよ、それに比べて日本は」みたいなストーリーアニメが流れている。
ここまでくれば怖くはないけれど、

歯の中を触られるといきなり痛いのがあるから嫌なのよ。

昨夏から地道に通っているので、そろそろ終盤かと思いきや、
その気配がなかなかないのにがっかり。
地道にいくしかないですね。
ここまで治療しているし。
次回の矯正調整の時に、矯正の先生と相談して、

虫歯?歯周病?の治療と矯正の進行のすり合わせをするそうだ。
どっちも早く終わらせたいけど、ゴールは2年後なんだろう。

それでも考え方によっては、毎回口腔ケアをしてもらっていると思えば!
そうだ、そうなのよ。
私の健康のためには、かなりここって大きいんじゃないかとも思うのだ。

私は口の中が弱い。よく口内炎できるし、喉も痛くなる。
この1年でやっとそれがわかった。
自分じゃ、もうずっとこんな感じなので慣れていたけど、
私は口の中でトラブルが起きやすい。
一般的には口の中には唾液線もあり、

身体の中に入って消化液とまざって菌も殺したりできるのが、

私はそのところが機能的に弱いようで。
なので、できるだけ口の中から雑菌を体に入れないことを実施中。
頑張っているじゃないか、わたし。

朝起きてすぐの歯磨きや舌ブラシを使っての舌磨き、うがいくらいだけど。

インフルエンザ対策にも、口腔ケアが効果があると、夕方のテレビで行っていた。

とにもかくにも、毎日毎日の繰り返し、積み重ね。
地味だけど、こつこつと。

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公園でひなたぼっこ~2019.1.24

まさにタイトル通りなのですが、
これは、自分が望むことを真っ先に叶える正しい行事w。
今日はお天気もよく、あったかく。
行かねば!と昼前からうずうずしておりました。
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近くの公園。日差しがまぶしくて、暑いくらい。
日焼け止め塗ってきて正解。

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 お約束の、裸足でアーシング。地面がひんやり気持ちいい。
あったかい。つめたい。ひんやり。じわじわ。ほのか。風。まぶしい。
ふ―っと息をして鼻から入ってくる空気の温度。肺に入っていく空気の大きさ。
息をはいた後のお腹のそこに残る何か。それを感じた後の、そこから地面につながっていくベクトルのような重いもの。
からだのいろんなものを感じるだけ感じる。そしてこうして思い出し書く時に、その感覚を言語化してみたり。

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 つゆ草かな。

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私は立ち枯れたものやドライフラワーは、
魂が亡くなってしまった残骸のように見えて、
あまり好きではないのだけど、この木花は単純に美しいと思った。

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 この木の下にいると元気が出る。ここから見上げる空も好き。

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 winding road

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 光る水辺

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 波間

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 赤と白

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 ピーピー豆の花

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 桜は準備中

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 紫のつぶつぶさん 

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きいろちゃん よく見るけど名前知らない子

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可愛いピンクの子
こういう集団が好き。

こんな写真を撮りながら、読書もしながら1時間半くらいまったり過ごしていた。
日が陰ってきたら寒くなったので退散。

今日読んでいたのは、山川亜希子さんの「宇宙で唯一の自分を大切にする方法」。

宇宙で唯一の自分を大切にする方法 (角川文庫)

宇宙で唯一の自分を大切にする方法 (角川文庫)

 

 ちょっと前の私なら、このタイトルの本には手を出さなかったと思うのだけど、
沖縄に行った後から流れが確実に変わってきていて、
過去の掘り起こしというか、
過去に触ったものを、少し違った目で見る機会が続いている。

前世療法とか魂の伴侶とか、そのあたりの精神世界の本を軒並み読み漁ったのは、父親が亡くなって以降だった。
母も私も、死ぬとはどういうことなのか、魂とは何か、死んだら魂はどこにいくのか、なぜ生まれてくるのか、生きるとはどういうことかなんてことをつらつら考えており、これらの本を読むことで、やっと父の死を受け入れることができた。

が、生きづらさはなくならない。

前世療法を読み終え、私も受けたいと思い、訳者の山川夫妻に手紙を書いたことがある。
奥様の亜希子さんからご丁寧なお手紙をいただき、前世療法ができる人ではないが、とある団体を紹介された。

私のスピ経験はここからはじまっている。

そんな、私にとっては過去の関わりであった方々だけど、
メルマガはずっと取っていてでも読んでいなくて、
でも、ふと読んでみる気になって一本読んでみた。
なんてことはなかったが、亜希子さんの優しい語り口調での文章に触れて、
和らぐ感じがして、何本か読む中で、この本が紹介されていた。

Amazonでぽちって、購入し、読み始めたら、
なんだか自分のことのようだった。
この本は、亜希子さんの自伝というか、自分の経験を書かれている本で、
学術的な感じでもないし、タイトルには「~の方法」とあるが、ノウハウものでもない。
でも多分、今の私に必要な教えなのだなと思って読んでいる。
実際、今だからわかることはたくさんある。
これを以前の私が読んでも、「こんなアバウトな書きかたされてもわかんないよ。」って思っていたと思う。

「自分はありのままで価値があること、あなたという存在はこの世に、この宇宙にたった一人の、貴重で大切な存在であることを、私たちは知らなければなりません」

今はこの文が心に沁みるけど、ちょっと前の私だと「誰でも言ってるし」とか「そんなことはわかってる」で終わっていた気がする。

まだ読了できていないので、読み終えるのが楽しみではある。

今日はこの辺で。