ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

なんで悲観的イメージしか浮かばなかったのかの仮説。

なんかまだいっぱい出てくるぞ。

「ねばならない私。」
「娘が頭が痛い」→「あらあら、大丈夫かな?」(心配性)「困った。ご飯作らなくちゃ」(私やれるかな?不安)→「鶏のみそ漬けストックあるし」(ほっ)→「息子帰ってくるし」(ほっ)↼イマココ

「評価されないと価値がないと思い込んでいる私。」

「はじめてのおつかいで、こどもがあおられていかされるのをみるのが嫌な私。」

「そうしなければみんなが納得しないという場に挙げられて、やらざるを得なかった私。
ケツまくれなかった私。」

すべてそっくり、癒したい。

正解とか不正解ではなくて、、、

いやもちろん、おそらく我慢しすぎたという間違いの道を選んでしまった私。
でも、やり直しはできるはずなのだ。

そうそう、思い出した。午前中に悲観主義だなと思い返しながら自分に夢想していた時に、なんで現実のことを思えないんだろうかと思ったわけなのだけど、
私は、自分がうまくいっているイメージを描くのを自分に禁じているんだ。おそらくね。
そう、ふと思ったんだ。

なあんだ。

難しいことでもなんでもなく、私は修道院の尼のような禁欲を、自分に課していたんだ。

私は幸せになっちゃいけないと、自分で呪いをかけているだけじゃないか。
それ、なんのためにやってるの?
私ってそんなに何か悪いことをしたの?

悪いことをもししたとして、でもそれは、自分を苦しめて生きなきゃいけないくらいのものなの?
ごめんなさいじゃだめなの?

私は幸せになっていいのだ。
きもちよくなっていいのだ。
楽になっていいのだよ。

謎がひとつ解けた。
万歳!

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悲観主義→夢想主義へ

進むべき道は自分で、そうさ自分の意志で決めればいい。愛してる❤ by News

自分の本当のやりたいに沿うってことね。

 

この歌詞とNewsのDVDに、現在大変救われている私です。

 

自分に素直にという行動指針を大切に、家にいてもやっています。 

 

 朝ごはんはパンを1、5枚も食べてしまい、味噌汁とコーンスープも食べてヨーグルトが入る隙間がありませんでした。

食べるとちょっと調子が良く、その後ちょっと不調感が出るようです。

 

食べた直ぐは横になるよりはとPC前にいたのですがPCに向かいたくなくて、ベッドの上で腹式呼吸することにしました。昨日感じていたぞわぞわはありません。

 

先程の不調感のことを考えていました。

今日は検便をクリニックに送ったのです。

大きな病気が見つかったらどうしよう。→死ぬかも。

映画みたいなフイルムのイメージが浮かびます。

いやいや、それ今考えても仕方ないし。

 

それにしても、いつからそう悲観主義が始まったんだろう?と思い返してみました。

いつからかは覚えてないけど出てきたのは以下。

「悲観的に、最悪のシナリオを考えていれば、自分は動じず準備ができる。」

「期待してできなくても仕方ないやとショックを最小限にすることができる」

…なんと本当に消極的な。

でもわかります。これ以上心を揺らして悲しくなりたくなかったんだよね。

 

黄色ちゃん(私)が本当に愛おしい。

 

で、じゃあポジティブな楽観的思考はなぜイメージで出てこないんだろう?って考えてみたんです。

うーむ。

ぼんやりしているからなんですよね。

私、どうしたいんだろう?

 

もちろん病気じゃない方がいいし、元気になりたいけど、

私はどんな時が嬉しいんだろう?どんな瞬間がいいんだろう?

そう思った瞬間にイメージが出てきたのは、Newsのコンサートでした。花道の横に私の席があって、まっすーなのかな、歌ってる、それを両手いっぱいあげてわー嬉しいまた聞けた見れた!楽しい〜!とはしゃいでる私のイメージが。

次に翼をイメージしました。

とも子先生が以前書いていた記事に、気分の変え方で好きな言葉をなんども言うと言うのがあって、彼女の場合浮き輪だったんですが、私は白い大きな翼。

これをイメージにしてみました。最初は片方だったけど、せっかくだから両方。せっかくなら飛びたい。

大天使の翼みたいに(見たことないから知らないけど)大きな翼ですーっと飛べます。まずは空に向かってすーっと飛ぶと陸を離れて海に出ました。怖さは全く感じない。むしろ気持ちいい。爽快。

旋回して陸地に戻ってみようと思いました。

向かい風があるかと思ったけど、ちょっと小高いとこに到着、平地にも行けます。りんごが🍎なっていたので、もいで食べました。ああうちにもりんごがあったな。すりおろして食べてもいいな。

そして私にはいつものお花畑があるじゃないか。お布団だって、ブランコだって作ったじゃないかって思い出したんです。

物語をそこで作ろう。こないだ黄色ちゃんと遊んだあれ自体が物語だし、もっとたくさん楽しい物語作っていい。

のんびり何もせずに寝てもいい。

何かしなきゃって焦るのは、死が怖いから?

 

絵を描くのもいいな。

今落書きの本のワークをやりかけていて、とても楽しいから、こんなことでもいい。

 

そんなことを考えていたら、身体があったかい白い光に包まれているような気がした。心地いい。

 

現実的じゃなくったって、私がそうしたいイメージにはいつだって行けるんだ。

NewsNewsコンが一番イメージに近いけど。

現実的イメージもそのうちね。

とりあえず息子の卒業式か入学式に春色の綺麗なお洋服着ていきたいかなw

 

この投稿を書いている間も、抵抗は半端ない。

ぞわぞわする。

土偶からなら受け流す。

たまにいらないと言う。

そして黄色ちゃんと私を抱きしめる。

大丈夫だよと言い、深呼吸しながらピンクの繭の中に避難して楽しい動画を見る。

遊ぶ。まったりする。

 

今日は雪模様の福岡。

外に出なくていい幸せ。

外にいる人のさむさに同調することなく、暖かい部屋で綺麗ねと感じる自分の感覚を大事にしよう。

 

 

 

呼吸でぞわぞわ。

腹式呼吸の途中、

吸うときは気持ちいいのに吐くときにぞわぞわしてた。

これは結構昔からあって、なんでだろうと思っていた。

「私は呼吸もうまくできない」

そういう思いが出てきた。うまくできない私は、と私は自分を責める。

なので私は私を抱きしめて、「息できている、大丈夫」と言い聞かせた。

すると「生きている価値あるのかな?」という思いが出てきた。びっくり‼️

「価値があるどころじゃなくて、大事だよ。一番愛してるのがあなただよ。一番大事で愛しているよ」と、私は私を抱きしめて言った。

少しホッとしたように、呼吸が楽になった。お腹がぐるぐる言っている。

吸うときは肩に力がちょっと入る。

でも吐くときは随分と楽になった。

黄色ちゃんはここにいた。やっと抱きしめて本音を言い合えた気がしてとても嬉しい。

 

後で藤野先生に聞いてもらいたい。

 

これは何度も繰り返しな作業みたいだ。

黄色ちゃんは、すぐに不安になる。

「ごめんね、大丈夫。私が一番大事なのはあなただよ」と何度も何度も伝える。そして私も楽になる。

まだぞわることも多いので、なんどもね。

自分育てとはこのことか。私の身体が苦しくなければいいのだけど。

 

息子が部屋に来たので、この話をする。

息子曰く息子の中には、

くるくる回るりすが居るらしい。

息子の手から黄色ちゃんによしよしも送ってもらう。

そういえば、息子は私を助けるため生まれてきたのだった(彼を身ごもったときに勝手にそう思った)。今頑張ってもらうときだw

癒しだなぁ。彼を娘を産んで本当に良かった。私には価値が大有りだよね。

出てきた「なんで、お姉ちゃんは我慢しなきゃいけないの?」という思い。

これができていないんだよね。
comuron001.com
出来ない私を責めても仕方ない。
焦るし、なんであせるかというと、身体がつらいから。
けど、とっても必要なものな気がする。

だって、ちょっとだけ調子が良い時、こういう状態だとすっごい楽なんだもん。
これで毎日生きられたら、めっちゃハッピーじゃんよ。

(と、NEWSコンのDVDでWeeeeeks(いくつeをつければいいか忘れた)を歌ってて、そう思った。私も歌ってあの場で飛び跳ねたい。今までは「どうせ無理」と思う気持ちもあったけど、今日は素直にそう思う)

朝、ベッドの上で自分を抱きしめた。
昨日の夜、今日の朝黄色ちゃんにアクセスしようと思ったが、なかなか難しかったから。
で、朝少しやってみたら、もふもふ布団にくるまっている黄色ちゃんを発見したけど、元気がない。抱きしめて「大丈夫だよ」と声をかける。言えないことがいっぱいあるんだなと察する。
ぎゅうっと抱きしめる。リアルに私は私を自分で抱きしめた。
ちょっとだけ声が出る。
「なんで・・・」
「なんであたしだけ」
「もういやだよ」
「頑張ってきたんだよ」
「私だっていろんなこといいたいよ!」
「もっと文句もいいたいよ」
「なんでおねえちゃんはがまんしなくちゃいけないの?」

ああ、出てきた本音。
言われていたこと。
忘れていたけど。
おねえちゃんといっても、弟より3歳先に生まれだけで、
私はまだ言いたいことも言いたいし、受け止めてほしいのよ。

もっともっと私は、どろどろしたものを吐きだした方がいい。
そう思った。

ちょっと関係ないけど、IBS過敏性腸症候群)で腸のセロトニンが分泌されると腸の先導運動を引き起こすのでおなかに不具合が起きるという。
セロトニンって幸せ物質だからいっぱい出そうという話じゃなかったっけ?と思い立ち、
ぐぐったら、以下のブログがヒット。

fuminners.jp


セロトニンは実は腸に90%ある。自律神経の交感神経が強いと(緊張が強いと)バンバン出ちゃって、腸にダメージかけちゃうみたい。

以下はとも子先生の投稿から。

近年、過敏性腸症候群IBS)にはセロトニンという神経伝達物質が関係していることが指摘されている。セロトニンは、その約90%が腸内にある。ストレスによって腸のセロトニンが分泌されると、腸の蠕動運動に問題が生じ、IBSの症状が現れるとされている。腸は第2の脳とも言われるほどに脳と神経によって密接に関連しており、不安やストレスに対し脳からその信号が腸に伝わることで腸の運動に影響を及ぼす。この信号が過敏となり伝わりやすい状態になっていることで腸が過剰に反応する。ストレス信号を受けると、まず胃からセロトニンが分泌され、腸内のセロトニン受容体と結合し、腸の蠕動運動に異常をきたし、腹部の不快感、腹痛、下痢などを引き起こす[4]

 

脳の5%のセロトニンをいかにもっと引っ張り出すかと、腸のセロトニンを遮断することがポイントになりそう。

と、ここで娘に上記の話(自分が「なんでおねえちゃんだから我慢しなきゃいけないの?」の話も含む)に聞いてもらった。
すっきり。
娘はそういう自覚はないそうだ(考えたこともなく、不満があると笑うとなくなるらしい。)。安心する。

自分のありのままの姿に対して
「これはダメなんじゃないか」と悩むから
心が重たくなるのです。

だからこそ、私は
ありのままの姿について、悩んだ時は
「ま、これが自分なのだから、しょうがないよね」と
良い意味で諦めることにしています。



ほんとそうだね。

諦めることができてないのかな。
多分、自分の封じ込めた思いを解放したり成仏させたりしたいんだよ。
私の一部だったから。
それを手放す作業を淡々としたい。
(今思ってるのは、自分の思い護摩焚き)

本当のことが知りたい。探求したい。

昨日結構辛くて、
そうなるととにかくネットからの情報にすがる。

まあ必要な時に必要な情報があり、
特にとも子先生のメルマガや素直セミナーのコンテンツは、ドンピシャなものも多い。

私が焦るのはおそらく、こういう時じゃないと自分を変えるチャンスがないと思っているからだ。
身体が戻れば、通常運転の自分にもどりがちなので、
今回はそこを変えたいわけで。

お腹がいつまでも痛いのは、そこにしがみついてる自分が居るからであるとも思うし、
単におなか(体)の抵抗であるとも思う。
でも、とも子先生のFBの返答のように、分析しすぎで疲れるという状態もまたあるなとも思う。
可能性の一つで、納得解を探している私だけど、
やりすぎるところがあるんだよな。

私の本質に「本当のことが知りたい」「探求したい」がある。
これは、この数か月で一番出てきた部分だ。

小さい頃、小学生高学年だったのだろうか?
「なぜ、結婚したら子供ができるのか?」について私はかねがね不思議に思っていた。
大人にきいても「結婚したら子供が出来るのよ」と聞いていたし、
でも、結婚って式をして紙きれを役所に出す儀式で、それと子供が生まれるという動物的な部分がどうつながっているのかがどうにも解せずにいた。

両親が持っていた小説に、セクシーな部分があって、ああ、大人はこういうことをするのねと思ったことがある。そういう記述を見たとたん、自分の身体にもかーっと熱いものが走るのも自覚した。
私の感覚として、人間にはそういう部分があるのだと体感した記憶のひとつだ。

あまり覚えていないが、小学校で女子だけ集められて生理の話を聞いたこととはどこかでつながったのかな。この時はどっちかというと、「自分の身体がそうなるんだ!」という衝撃しかなかったので、どこでどうつながったのかはあんまり定かじゃない。

でもこれらがつながって、どこかのタイミングでああ、大人は「セックスするから子供が生まれるのだ」とつながった時に、雲が晴れた気になった。
雲が晴れた記憶しか覚えていないが、やっぱりものには真理があるのだと、その時わかり、すごくうれしくなった。真実にたどり着いた喜びがあった。

今私は、身体と心と魂、そして神仏との関係がとても知りたい。
神仏は巡禮記で学んで自分も祈って来て、ちょっとだけ理解出来てきた気がしている。
これも自分が必死で考え、動き、あがいてまたやってみてと繰り返している中で、自分の感情や感覚を取り戻していく作業だ。
魂は感情がない分、喜怒哀楽の差別なく、激しい摩擦を好む(私の場合)という。
私の魂はおそらくそれを希望して私に生まれてきた。それはよくわかる。
であれば、現世に生きる私は、その人生を乗りこなして、楽しく幸せな方向で摩擦したい。これまでの私劇場は、お涙頂戴的な物語でありきたりだ。もうそれ面白くないし、もっと幸せアドベンチャーの物語

そして今のこの病気。心や気持ちの持ちよう、過去からの哀しみに目を向け、自分に厳しすぎる私を、そうじゃなくても大丈夫と頑張ってきたねといたわり、がちがちに固まっている私自身に声をかけ抱きしめる作業が今。
「責めなくていい」というキーワードにたどり着いた昨夜から、事実を見たり感情や湧いてくる時に「でもこれって単にこういう状態だけだから」「私が悪いわけじゃないから」「自分と関係してると限らないから」とそのつど声をかける。そして深呼吸する。そうすると、少しざわざわする気持ちがおさまる。

お昼ご飯、朝が遅かったこともあって食べる気持ちがあんまりわかない。
でも、少しなら食べられるかなと思って、卵粥にしてみた。
作りながら、「きついのに自分で作んなきゃいけないのってなんなの?」とふつふつと出てきた。
ここで言っても何なのでそれを否定もせず「後でブログに書こう」と思ってそのまま作った。作ること自体に嫌悪感はない。
おそらく私はもっと気遣ってほしいと思ったんだな。
でも、はれ物に触るような感じは嫌だ。普通に接してくれる家族がありがたいし好き。

食べている途中、なかなか入らない。1/3かな。
するとまたもやもや。
「食べれないって・・・」ってやな感じ。
でもしばらく置くと、一口食べれたりする。
「すこしずつね」と自分に言い聞かせる。
それを繰り返して、2,3口残してお昼は終了した。

朝はパンとココア黒糖、ヨーグルトが食べれたし、美味しかったから、よしかな。

甘いの摂ると口の中が甘いね~。
まあゆっくりゆっくり。
身体の理由もあるかもしれないしね。

横で、中3息子が進路の悩みを相談中。
可愛いなぁ。





イタい自分を見る

何度もここにぶつかってきた気がするけど、
うまく切り抜けられなかったので、今回は行くぞ!
(と、今は少し痛みがないのでイキがれている^^)

自分のコンプレックス表を更新していました。
前回書きだして、再度それを見ながら「まだ隠したい自分がいるんじゃないか」と。
前回は割と単純に「コンプレックス」という言葉に沿って考えたので、今回は「思い込み」とか「知られたくない自分?」とかで。

 

「頑張らなきゃ認められない」
「たいしたことないと思われたくない」
「信頼されたい」
・・・なんじゃこりゃ。

相手がどう思うかわからないのに、
自分でそういう自分を演じるなんて痛い。

 

認めてないのは自分じゃん。
いいじゃん、やってきたことだけ認めれば。
いいじゃん、その思いだけでも受け取ってもらえれば。受け取るかどうかはその人次第だから、伝えるだけでいいじゃん。

コンプレックス表には「病気する私はダメだ」も大きく鎮座している。
とも子先生の例にあった17歳の男子は、私の姿だ。

たいがい、自分のことを認めようよ、私。
私は悪くないし、私は継続もしてきた。
自分の信じる道を頑張ってやってきた。
このこと自体は悪くない。
頑張りすぎて、自分にないものをばかりを追い求めて、
自分に鞭を打ち続けるのをやめよう。
そして、痛い自分を、イタい自分をやめよう。
私がしたいこと、そうだと思うことだけを、やろう。
やるべきことではなくて。

イタい自分をそのまま持って、好きなこと、自分の感覚を大事にしようね。

これやろう↓
今私ができること。

nyanyamaru.com

nyanyamaru.com



 

素直な自分を取り戻すための私のトライアル

以下、とも子先生に当てたメルマガの返信の一部。
(とも子先生のメルマガ、ブログは「どうぞ、気軽に返信をください。」と書いてあるので、
エクササイズだと思って書いています。書くことは自分の中のモノを出し、新しい気づきともつながるので大好きです。)
===
神様からのテストだなぁと常に感じます。
頑張ってその課題を解くことが答えになると信じていましたが、
そもそも受け取り方の時点で機嫌が悪いインプットになっていたきがします。
「またきた!」と。
その中でそういう波にワクワクする自分もいて、
私はきっと乗り切れる、、なんて、
そういうドラマで自分の魂をワクワクさせていた気がします。

でも私の心身は疲れ果てていて、こんなドラマはもういらないと思っています。
同じエネルギーをかけるなら、楽しい嬉しい方がいい。
その書き換えをし始めているのが今かと感じています。

昨日、病院の先生から電話をいただきました。
この先生は私が一番信頼を置いている方です。
研究のため現場に出られなくなったのですが、
院長でもあるた現場からの報告は見ていらっしゃるそうで、
私の血液検査で一つ数値が高いものがあったらしく、
体重も当初から10キロほど落ちているので、
次回来るときには検便を持って来るようにとのことと、
栄養の指示、栄養剤と薬の補充をしていただきました。
着払いですが、お薬も送っていただきました。
在宅でもこうしてケアしてくださるのがありがたいです。

とはいえ、私は不安になってしまいました。
せっかく大好きな先生が電話してくださったのに、
体調がとても悪かったということももちろんあるのですが、
機嫌が悪い受け取り方をしていました。
「え?先生、データが悪かったって、やっぱり私は悪い病気なのですか?」
って。
「あ、F先生❤私のためにわざわざ電話を!ありがたい。先生好き。そういう情報が欲しかったんです~」
ってすませばよかったのに。

そんな不安ど真ん中に居た私は、必死に素直セミナーの機嫌のところを再視聴。
すると自分が、機嫌悪い状態のどん詰まりにまさにいることが、自分の中で視える化できました。

機嫌が悪い状態の私は、外的要素に依存している状態。

痛い、つらいに依存している。もちろんめっちゃしんどいからそうなる。

けど、これだと思考と行動が「痛みとめるためにこうしとこう。痛くならないようにこうしとこう」になりがち。
となると、

自分の感覚を意識することがなくなる。

人のせい、痛みのせい、状況のせい。

諦めモード

いいっていうからやったのに~(被害者モード)

自分の感情に飲み込まれる・・・

正直、体が辛いときに、自分の感覚はどうかって考えるのものすごく難しいです。
辛いが一番ですから。
そこでどう考えるかなんですよね。そこが難しいです。
自分はどうなりたいか、もちろん治りたいけど、
治りたい、痛くないようにしたいよりも、
「私は素直になって、肩を張らずに楽に生きたい。
自然に思い切り息をすい、自然のままに生きたい。」

今は切実にこれです。

この目標設定がいいのかどうかわからないのですが、
今の私にはここかなと。

そしてそのためにはどうするか。
今、ほぼ家で寝ているので何かするということも少ないのですが、
痛めつけた体をいたわり、肩の力が入っていたら、その度に緊張を抜き、力を抜く。
そこを必要以上責めない。
長年の癖は体に染み付いてるので、一つずつ優しく労ろうと思っています。
 
今日あたらめて私はどんなことを求めているのか?考えました。
動きたいと思う自分は常にいましたが、
その大元に、今の自分は
もう怠けるだけ怠けてゆっくりあったかいところでのんびりして笑っていたい」
と出てきました。おそらくこれが私の本心だと思います。
それを土偶価値観が監視して縛っていた気がします。

仕事も思いつくものは、ほとんど休み宣言をしました。
母の介護も弟にお願いしました(まだ負荷もありますが、動けないので無理と病院にも伝えるつもりです)
夫の体調もいまいちなようですが、私の状況も彼に伝えました。
(彼も大変だからと思いずっと遠慮して言わなかったのですが、
言わなければわからないと思い、できるだけ話をするようにしています。聞きもしています)
遠方に行っていた娘が、この状況を鑑み、帰ってきてくれています。春先までいてくれるようです。
彼女の仕事も一旦ケリがついたことと、うちには受験生の息子もいて、
家事や介護の一助にと言う気持ちで帰ってきてくれたので、
私の気持ちがかなり救われています。
私が助けを呼んだ気はしています。

自分ではできる限りの助けを周りに求めました。
あとは私なんですよね。

今日は「イタさを見ることなしに素直になれない」を見直します。