ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

ヒーローズジャーニープロットで振り返る巡禮記 沖縄 3-3.帰還

3-3.帰還



寝込んだり発熱したりしながらも、クリスマス前にプレゼントは物色に行きたいし、銀行にも行きたいし、約束もあったりして、「今日は寝込む日」「今日は動く日」とメリハリをつけながら動いている年末の日々。
もちろんからだの声は聞きながらだが、まあうまくいっている。

母のところに行くと、帰りのバスは時刻表も見ていないのに、大体いい時間にバスがきてくれるし、10日に出かけた時も、19日の動きもそうだった。

19日のブログはこちら。

miww55.hatenablog.com

まだ振り返りらしい振り返りもしておらずで、沖縄での出来事を「おいておいた」状態。
私の性格上は、そういうのって気持ち悪くて、早く処理してしまいたい方なのだけど、
こたえがすぐに出るものでもなく、また課題がデカすぎてちょっとやそっとじゃ、、という感じでもあったので、文字通りの「棚上げ」に。

時間がまとまってできるまでは、目の前の今を、できるだけ直感で味わい考えようと思った。
そういう方針で行こうとなると、頭と心に余白ができる。
それで、動く時に必要な情報が、ピピっと入ってくるようになった。

先出のバスを待たずにバスが来るってのもそういう感じで、
ふんわりしていると、いい具合にタイミングが図れるのだ。

これが重なってくると、なかなか面白くて、
とりあえず時間とゴール、必要なら条件を定めて、後は直感に任せるゲームの感覚。
街に出ての歩き方なんかも、こうやって歩くと面白いものに出会えたり、
時間がどうやっても無理だろうと思ってても、どうにかなったりするのだ。

おかげで、街を歩く時に考え事してぼーっと歩くことがなくなった。
全部の店をじっくりみてるわけでもなくて、ポイントポイントがくっきり見えるので、そこを見てる感じ。

そういう時は、自分の五感に耳を澄ますようにしている。
「今何が食べたいかな。」
「今どんなものを欲してるかな。」
「どんなところに行きたいかな。」

できるだけ、その要望に沿うものを探していく。
例えば「帽子がほしいよなぁ」って思うと、
道すがらのお店のウインドウで帽子が目に入ってくる。
いくつか見送りながら「なんか今は緑っぽいのに目がいくよね」とか
「今日はボアっぽいのが気に入ってるな」とか
その時の自分の嗜好にも気が付いたりする。

さて、19日は「いちご!」だった。
デパ地下のお店で買いたかったけどルートは逆戻りになるし、時間もない。
でも歩いていると、なぜか道を間違えて、高架上を通ることになったので、
遠回りすることになったけど、スーパーに不時着し、いちごが買えた。

こういうのはとてもおもしろい。

さて、いちごを手土産に持って行ったところは、
治療院を経営している女性のところ。
昨年から半年に1回くらいのスパンで、やりたいことを語り合う会を二人でやっている。

きっかけは、私が病気から少し立ち直った頃、
これもピンときて、彼女に「少し話したいです」と
時間をとってもらったのがきっかけだった。

仕事になるのかどうかもわからない、
自分の問題意識やこんな場があるといいと思っていることを話した。
彼女も、それらを話してくれた。
それらを組み合わせてじゃあ、って感じでもなくて、
何かできないかなって感じでもなくて、
困っている人がいてそれが解消するように場を作るには、どんな場がいいのだろう?
困ってる人って実際にどういう人のことをいうんだろう。
未病的なほおっておいたら病気になる、そう言う人のいる場ってグレーゾーンだよね、みたいな話をしながら、
お互いの話に関連すると自分が思う情報を、次々に話していく。
それがとても面白い。

今回は、彼女が私がやっているレゴシリアスプレイの場に参加してくれて、
それから又話が盛り上がり、「19日どうですか?」と言われて伺ったのだった。

彼女が言う。「ある社長さんに”君の話がつじつま合ってないから。わかってる?”って言われたんだけど、私のなかではつじつまあってるから」。

それってすごくわかる。
表面的に論理的でないと、そういわれてしまうことはよくあるんだけど、
表現上の話なので、根本的なところはつながっていたりするのだ。
それは本人にはわかっているところ。
ただそれって自分の中の何かとつながっていることが多いので、
切り分けたり整理をしないと、他者には理解されないことが多いのだ。
なのでビジネス的には論理的であることが、つじつまが合うという話になるのだけど、
本人の中の言語化されていないブラックボックスがある前提でとの話では、
かみ合わないのは仕方ないかもね。

そんな話も、これまでの私であれば
「論理的でない話は、ビジネスには通用しないから難しいなあ」
なんてことを考えていたのだが、今はそういうのも含めて、
私たちの感情や思いをひとまず救い上げて、
ここに居ていいんだよって場が必要だなと強く思うようになってきた。

沖縄効果だ。

論理的であろうとなかろうと、困っている、生きづらい人は多く居る。
そんな中で少しでも自分を認めて安心できる場が寄与出来たら、どんなにいいだろう。
それを仕事にできるなら、どんなにいいだろう。

この日、私の中に浮かんできた言葉は、
「低年齢児から、自分の身は自分で守るという権利を持っていることを、意識づけたい。」だった。

私の中の小さなきいろちゃんにも届けたい言葉だ。

さて、この言葉が出てきたからといって、何ができるのか何をしたいのかはまだ全くかたちもでてこないのだ。

これだけをしたいわけでもなくて、
そもそも私は、こどもたちの(おとなでも)自己肯定感を高めたい。
と思って仕事をしてきている。
これも自分の問題意識であり、自分自身の課題でもあるものだ。

自己肯定感を高めるには、自分の気持ちに気づき、自分に信頼を寄せ、
安心して生きていける心の場が必要だと私は思っている。
どんな人でも自分というパーソナルなものを大切に持っているし、
持っていていいのだ。

当たり前のことを言うと思われるのかもしれないけれど、
実は、子どもの頃の思い込みやトラウマは、
そういう自己を否定してしか生きていられなかった子どもも多い。そんな子が私だ。

そういう子は、自分を大切に持つということ自体がわからないし、大切にする、されることもわかっていない。
人としての人権として、個人は個人を大事にしていいんだということが、
憲法で保障されてるんだよってことは頭でわかっても、心ではわかっていない。

私は、ようやくここに気づいた。

自分を大切にするってことは、自分を自分で好きなように育んでいけるということ。
そしてそんな自分は、誰からも非難されないし、どんなことからも護られていい。
自分でそれを護るんだよってことを、学んで育てていけたら、
個として最強なのではないか。なんて思うのです。

そういうことができる仕事がしたいな。

今は、そういうことも含めてできる仕事を大学でさせてもらってて、ありがたい限りです。
が、もっとこれを具体的に形にしていきたい。
私ができることを活かして、
私と私の中のきいろちゃんを育てながら、私のような子を救い上げられ元気づけてあげられたら。
人は自分で気づかないと成長できない。
でもその環境は用意してあげられる。
そして他者と協力するということを通じて他者に自分を見、他者の鏡になっていくのだ。


私は、人がそういう本来の自分を信じ愛し、

そんな自分を基点にして生きる場を創りたい。

やっと私らしいところに帰ってきた気がする。


(とりあえず 完)