ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

母への告白 2019.7.16

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■母からの突然の言葉

弟から電話があった。
私が母のところに行った翌日だったかと思う。
「母の家から香水を持ってきてって言ってたよ。」

母の家はもうない。
1年2ケ月前に、母が痴呆を患っている時に、処分したのだ。
苦渋の選択だった。
それしかその時には選択肢がなく、弟も私も同意で決めていった。

この作業はかなり私の精神には辛い作業だった。
母はまだ生きているのに、ほぼ意思疎通ができず、
私はそのことにショックを受け、また母宅をかたづけながら、ものたちひとつひとつからの思い出を処分しなければならない現実に押しつぶされそうになりながら、やっとの思いで立っていた。
娘に随分手伝ってもらい、最終的には片づけやさんに入っていただき、処分した。

弟は忙しさを理由に出てこなかった。
彼の中で、これは私がするものだと決めているようだった。
彼は余裕がなくなるとよくこうなる。

だからなのかよくわからないが、またもや彼は自分で言わずに、私にそのことを振ってきた。
怒る私。
が、私が怒れば、その痛みは私に出てくる。

痛んでいるうちは、その怒りをノートに書きだしたり、TMS対処の方法でしのいだ。
怒りを乗り越えないと次にあたれない。
まああいつはそういうやつだから仕方ないという、私のあきらめもどこかにある。
(仲はいいんですが)
あいつにいったところで、何も進まないからこれ以上は言わないだけだ。

それよりも、母にどう言おうかが問題だった。

私はうそをつきたくない。
嘘が嫌いだ。
それを自分の中にためておくことは、あまり好きではない。というか、かなり苦痛だ。

ただ、今回は母のためには「今は言わないでおいたほうがいい」という、
判断をし、とどめておいたものだった。

■リハビリ病院から、老健、特養に移った経緯

母は、家を処分するちょっと前にリハビリ病院から老健に転院した。
リハビリ病院では、みるみるうちに痴呆になってしまい、要介護3のランクもついた。
私と弟はかろうじて認識しているが、ドクターとスタッフの方を敵だと思い込み、ハンストする。薬も飲まないので、その度に私は呼び出されていた。
家に帰るといい、ベッドを降りるので、半拘束的な処置を取られたこともある。

老健にうつると、リハビリ病院より、幾分元気な方々が周りをうろうろされている。
スタッフの方も多く、よく声をかけてくださるので、無表情だった母の顔に表情が戻った。この頃から少しずつ痴呆がほぐれてきて(という言葉も変だけど)、ついに常時覚醒した。
本を読むのも再開、よくしゃべるようになり、ご飯が美味しいとばくばくたべるようにもなった。老健を出るころには、要介護は2になった。
ここまで変わるとは。

リハビリ病院では、脳のCTで脳の萎縮もみられ、脳梗塞の後もあるし、もう元にはもどらないでしょうといわれていたのに。
この言葉に後押しされたから、家を処分できたので、まあ私たちにとっては必要なことばだったのだが、母が元に戻るということを想定してはいなかったので、母の帰り先をなくしてしまったというのは、私の中に残った。

当時、恒例の一人暮らしの方を看取る仕事をしている友人に、話を聞いてもらったことがある。
「もしも、おかあさまが元気になられて、施設を出てまたアパートを借りることになるくらい快復したなら、それはその時に考えればいいじゃない。お母様にもそういえばいいじゃない。」と言われて、そうかと気が楽になった。


母が気に入っていた老健だが、そもそもそこに居れるのは3か月が基本限度で、その先はそれぞれ行く先を探すことになる。そういう決まりがある。
うちも2か月目にはいくつか近くの特養を回り、2ヶ所に申し込みをした。
ピーク時には100人待ちのような状態もあったそうだが、
うちの場合、母は一人暮らしで、その家に戻ること自体が難しい状況だったので、
施設によって頻度は違うそうだが、空きが出た際の受け入れ会議の優先順位は高いとのことだった。
7ケ月目に今の特養から連絡が入り、8ケ月目には申し込んでおいた特養に移動することになった。


特養に入るには、収入を開示し、本人の年金の払える額の中で生活を営むことになる。
なので、どちらにしても住居を処分する必要があった。特養に入りながら、住居を保っておくことは金銭的にできなかった。

私たちには選択肢はなかった。
当時もそう思っていたし、今もそう思う。
あの時母の意識がしっかりしていれば、母に確認しただろう。
が、当時はそれもできない状況だった。
(リハビリ病院の先生に相談した際は、痴呆の状態では老健に行くことと家を処分することの2つは、本人にとっては頭の中で処理ができないと言われた。
それはとても納得したので、老健に行く話だけを本人に了解してもらって、転院したのだった。)

どうしようもなかった、、と思えば思うほど、
体の中のどこかの片隅で「でも本当にそうなの?」と思う自分もいる。
第3の道はあったかもしれなかった。
私に余力があれば、それをさがしていたかもしれない。
でも、それは当時できなかった。
体力気力共に、私ができるだけのことが、今の現状にある。

母がいまの特養にいいタイミングで入れたのは、それもまた確率的にはラッキーな話だった。
老健に入った母は、みるみるうちに回復し、痴呆だったなんて嘘でしょ?って感じになった。ありがたくも老健から特養に移った時も発症せず、落ち着いてくれている。

特養は、実は要介護3以上じゃないと受け入れてくれないという話だった。
申込時は3だったが、よくなって受け入れ時には2になった。
それでも、特養が受け入れてくれたので、救われている。

母は、実はラッキーな人であると思う。
何やかや大変な人生を送ってきているが、危機に陥った時にも、なぜか救いの手が入る。そうやってギリギリのところでV字回復するので、
まだまだお役目があるのだろうと思わせられる。

■いつ言うか、どう言うか

さて、そんな感じで特養に入り、おちつきかけた11ケ月目に、
いきなり告知のタイミングがやってきた。

特養に移ってから、いつこの話をしようかというのは、ずっと私の中にはあった。
が、本人から言われるまではやめておこうと思っていた。
理由がなにかあったわけではないが、まずは特養の部屋を整え、毎日を過ごしやすくすることに腐心しようと思った。
場所はどこであれ、ベストな状態をつくってやりたかった。

そんな時に、
「母の家から香水を持ってきてって言ってたよ。」という言葉が降ってきたのだった。

当時、部屋の片づけを手伝ってくれた娘に言うと、
「なかったって言えばいいんじゃない?わざわざ家を処分したって言わなくても。」
という。
なるほど。そういう考え方もある。

が、嘘はぼろが出る。
母には真実を受け入れてほしいという私の思いもある。
重病でも痴呆でもない状態だから、こそだ。

夫にも言ってみたが、「そうねぇ」で終わった。
親のことは「子」が関わりを持つのは当然なので、私自身も夫に期待をしているわけではない。アドバイスをもらえるなら、なんだけど、ないならないで構わない。

ここは私の思いを通させてもらおうと決めた。

とはいえ、ベストはどのタイミングでどんないい方がいいのかは、悩むところだった。
しかも、その香水についての情報がない。
母の部屋の引き出しにあったような気は確かにする。
でも、母からその由来について聞いたことはなかったと思うし、
今回母がどんな気持ちでその言葉を言ったのかもわからない。

聞くしかない。

行くタイミングは、いつもの通り週末しかない。
が、一人で行くのはなぁと思い、息子に相談したのが3連休の中日の夕方だった。
いくならその日かなと思っていたのだが、大雨で、行きあぐねていた。

決めはしているが、どうにもしゃきしゃきしない。

息子に話を聞いてもらい、結局、彼も同行してくれることになり、
翌日の私の仕事が終わった頃に待ち合わせをしていくことにした。


雨も上がり、風もさわやか。
息子もいるし、近くのイオンに散歩に行こうと誘ったら、行くという。
母を散歩に誘うと、8割の確率で断られるのが常なので、
ラッキーである。
母が好きな本屋をめぐるも、好みの本はないらしい。
母は耳が詰まっているので、少し会話がしにくくなっていて、
口数も少ない。
が、コメダ珈琲ではにこやかにコーヒーを飲んで、会話もそこそこ弾んでいた。

ただ、雰囲気的にそこで話す感じでもない。

耳が聞こえにくい状態なので、外だと必要以上の大声を出さないといけないのもちょっと気が引けた。

そのまま、部屋に帰るともう食事の用意ができていた。
あまり時間はない。


■母と香水
ふと、母から「K(弟)に、香水を持ってきてって言っとったんだけど。」という言葉が出た。

ああ、今なんだ。
やっと覚悟して、私は車いすの母の横にひざまずいた。

母にはまず、その香水のことを聞いた。
「その香水って、パパの形見のやつなの?大切な思い出があるとか?」

「うん。ナンバー5。」

ナンバー5というのは、シャネルの5番だ。
そういえば、母のいつもの引き出しにあった気はする。
ただ日常的に使っていることをみたことはない。母から香りがした記憶もない。

「そんなに思いがあるってものでもないんだけど、K(かず)が”ほしいものなんかある?”っていうけん、ふっと思いだしてね。枕のところにたらしたらいいかなぁって」

香水は、父が韓国出張の時に買ってきたものだったようだ。
免税品が安く買えるので、父は韓国出張の際には山ほどお土産を買って来ていた。
買って来てもらったものはたくさんあったのだが、その香水は使う機会もあまりなく、なんとなく持ち続けていて、結局形見のようになってしまったのだろう。

父が亡くなってもう35年くらいになるので、そもそもそんなにものも残ってはいないのだが、それでも母が一人で暮らしていた家には、その思い出が充満しているものがかなり残っていた。

「そうなんやね。あのね。
かあちゃんにはいってなかったんだけど、、、」と
リハビリ病院で母が痴呆になったこと。
その時にお医者さんに母は戻らないといわれたこと。
施設と母の家を同時に保つことはできなくて、処分したことを話した。

母は「うん、わかった」といい、
じゃあと食事に向かった。
「香水は、香りがあると安心するだろうし、必要なら買ってくるよ」と言ってみたのだが、「いや別にいいよ」という。

結構そっけない。
私はというと、母はその後いろいろ考えるのだろうと思ったら、
母に言ったことですっきりなんてしていられなかった。

フロアの方に別件で呼び止められたので、ついでにこの話をし、
ショックを受けているかもしれないので、
少し様子を見ておいていただけませんかと頼んで帰った。

2日後。
母を耳鼻科と期日前投票に連れて行った。
耳鼻科は5ケ月ぶり。
補聴器も慣れてきたので、頻繁に耳鼻科にこなくてもよくなっている。
詰まっていたものも、以前よりも軽く取れて、本人も機嫌がよい。
「あ~、綺麗に聞こえる~」と満足気だ。

その勢いで、期日前投票に誘ったら、行くというので区役所に。
区役所ではレンタルの車いすがあるので、それに乗って投票所に。
投票所では係りの方が説明してナビしてくれたので、お任せする。
母はおそらく1年以上ぶりくらいに字を書いたのではないだろうか。
期日前投票の理由と、投票で字を書いていた。
ちょっと感動( ´艸`)

母からは、家の件ではその後何も言わない。

■娘からの提案

娘にこの話をしていたので、彼女からちょこちょこメッセが入る。
香水にまつわる話をすると、
「せつないね」という。

そうなのだ。せつないのだ。
母がどう思っているかわからないが、その話を聞くとどうしても切なく感じる私が切ないのだ。

娘が言った。
「その香水、私がおばあちゃんにプレゼントしたら、おばあちゃん喜んでくれないかな?」

ああ、そういう手があった。

「香水もだけど、あなたがおばあちゃんを思ってプレゼントしてくれたことに、おばあちゃんは喜ぶと思う」と返した。

よか娘や。

正社員1年目の娘は、ボーナスも出て( ´艸`)はぶりがよい。
安定的にお金が入ってくる安心感は、彼女を安定させているようだ。

昨日はシャネルに行き、モノを見てきたらしい。

「わたしもさ、おばあちゃんになにかプレゼントをちゃんとしたことなかったけど、そういうこともできるようになったしさ」と言っていた。

大人になったなぁ。

私が母にしてあげたことの一つは、孫を持たせてあげたことだと思っている。
親を早くになくし、伴侶も早くになくし、苦労してきた母なので、
その娘としては、母がほしかった愛情の足りない分を埋めてあげたいという思いを強く持っている。
孫である娘の言葉や行動は、その私の思いを受け継いでくれる感じがして、
私自身もとても救われている。

話はとりあえずここまで。
長くなりました。