ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

桜のこの時期に 2021.3.20

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今年は東日本大震災から10年でした。
FBでは「思い出」として、
過去のその日に投稿したものが出てくるのですが、
3月11日はこの話題に関してのものが多く書かれています。
やはり思い出して書くことが多かったのかな。

インパクトは強調され、細部は徐々に風化する。
記憶ってそんなもののように思います。
だからこそ、記録にとどめたり、誰かとその思い出を改めて話すことって大事な気がします。

だからということではないけれど、
震災特集かなんかの番組をみながら、
夫と息子と話をしました。

東日本大震災の日は、ちょうど娘の中学の卒業の日でした。
式が終わって、みんなで写真も撮って、
帰宅してお昼ご飯を食べて、やっとほっとして座った頃でした。
リビングでは娘が早速、髪を染めていました(笑)

地震の知らせにリビングのテレビをつけていると、
次々にただことではない知らせが入ってきます。
津波が押し寄せる様子をリアルタイムで見た息子は、
怖いと私の横に座り体を寄せてきました。

その2年後くらいだったか、東北に行くご縁がありました。
その際の震災関係の企画で、出会った「キオクノキロク」を出された佐藤さん。
「キオクノキロク」は、震災にあった方々の日々の暮らしや、震災前震災後の写真集。
それを見せてもらったときに、私は衝撃を受けました。
報道でみてきたものとは違う記録がそこにはあったからです。
知っている気になっているけれど、そこで何が起きて皆がどう過ごしてきたのか、
私は何も知らなかったのだと思い、その写真集を送ってもらうことにしました。
これは子どもたちにも見せなくてはならないと思ったのでした。
私自身は、この時にいくつかの遺構を見て回っています。
またその後にも仙台に行く機会があり、別の場所にも連れて行ってもらいました。
毎回思ったのは、まだなにも戻ってきてはいないということでした。

その後、娘が山形の人と付き合うことになり、彼のご実家にお世話になって2年。
成人式の前撮りをするというので、家族で仙台・山形に向かいました。
その際、せっかくだから仙台で震災がどういうものだったのかを
家族にも体験してもらいたいと、前出の佐藤さんにお願いして、いくつかの場所につれていってもらったのです。
当時のそのままになっている小学校跡は絶句というしかありません。
その地を訪れた方々からのたくさんのメッセージも残されていました。
当時は海水浴場として松原と家屋が並んでいたという荒浜という漁村は、堤防しかない野原になっていました。
一角に建てられた小屋で、そこに家があったという方々から直接お話を伺いました。
昔の写真をみながらお話されることと、今自分がみているものと、報道でみていたものが全くリンクしない状況で、頭ではわかっている気がするけど心が追い付かない。
そんな思いだったように思います。

この時のことを思い出したと、息子が言いました。
「ぼくはあの時あそこに実際に行ってよかった。知れてよかった」というのです。
「実際に見ると、思っていたものとは全く違う」と。
彼は当時もうすぐ中学1年生という時期でした。
それまでは全く関心もなかったし、その時もそんなに関心を持っているようには見えなかったのですが、毎年この時期には震災のことをテレビでもみるし、それなりに思うことがあったのでしょう。
その時には言葉にならなくても、後から思うことはたくさんあります。
あの時、企画してよかったなとつくづく思いました。

話はもっとさかのぼって、16年前の西方沖地震のことになりました。
息子は当時2歳なので、ほぼ記憶はないそうで。
そうかぁ。娘は9歳だったから、覚えてるかな。
福岡は地震がない街だと信じ切って長年生きてきた私でしたが、
16年前に起こったこの地震で、その自信は木っ端みじんになりました(しゃれではありません)。
春分の日のお休みで、家族でかしいかえん(レジャーランド)に行く途中の車中でした。川筋を走っていると、車が蛇行するんです。数年前に高速道路でその経験があった私は「又パンク?」と思いました(高速ではパンクでした。怖かった)。
が、他の車も止まり、電線がゆらゆらと揺れている。
これは車が揺れているのではなく、地面が揺れているのだと知りました。

揺れが収まったので一旦家にかえってみると、本棚の一番上にあった息子の五月人形が絨毯の上にコロンと落ちているくらいで、何も被害はない。
それを確認して、安心してかしいかえんに。

行く途中にマリンメッセでは陶器市があっていて、後処理にバタバタされていたのをみかけ、またブロック塀が壊れているのもみたり、意外と被害があっているのもみました。福ビルのガラス窓が結構割れていたのが衝撃的。

かしいかえんには結構人もいましたが、さすがに遊具はストップ。
携帯もパンクしているようで、こちらから親戚に「大丈夫だよ」と伝えようと電話するもつながらず。
しかたないねとのんきに遊んで帰ったら、被害がどんどん明らかになっていってました。
保育園友達の多い警固地域のマンションは扉が開かないとか、マンションにひびが入ったりとか結構大変な状況に。
うちの弟のアパートも、結局この地震がもとで(壁にひび、お風呂にひびも入り)結局立ち退きになったんですよね。
亡くなった方は1人と奇跡的ではありました。

そんなことを思い出し、夫とあれこれ当時のことを息子に教えるという時間になりました。

この数年地震だけでなく、毎年大きな台風がきたり、
大型の災害は場所を問わずにやってきてもおかしくないという認識になっています。
夏に大きな台風が来た時に用意した防災グッズやリュックは、そのままにしてあります。
もう半年以上たったから、食料や水の見直しをしないといけないかな。

家族で話をしてから数日、今日また東北で地震、そして津波注意報が出されました。
ちょうど娘に、こちらの桜の写真を送ろうとしていた時で、写真の代わりに「地震、大丈夫?」と連絡。娘はショッピングモールの中のお店で働いています。
「まだお店にいた。だいじょうぶ。」という連絡にほっとして。
後から本人から電話が入りましたが、横揺れが酷く、みんなでお店の真ん中に集まって避難していたそうです。エレベーターもストップしていたとか。
でも無事で何より。

心が揺らぐことは多々あれど、
できることを精一杯その時にするしかないのだろう
ということしか言えないなと思います。
せめても人災にならないように、学ぶべきこと考えるべきことをやる。
そして、自分はどう生きたいのかを考えることに行きつくのでしょう。

3月になぜかこういうことが続くのは、
やっぱり何かこの時期に考えなさいということなのだろうと
思うのです。

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