2月に入ってしまいました。
早かった、1月。
でもお正月が、遠い昔のような気がしないこともない。
わたしとしては、2月節分あたりからが「新年スタート!」って感じがする。
12月で前年が終わって、2月から新年に向かうための準備みたいな。
だって12月って、クリスマスもあってなんか妙に浮かれ気分でw
そこからしゃーっと5,6日で、
一年を締めるまではいっても、新年からをどう過ごすかまでは、
なかなか気持ちも時間も足りない気がするのです。
ということで、勝手に毎年「2月あたりから本腰入れねば」と思ってる私です。
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壇珠さん(ミユさん)の言葉に、とても救われることがあります。
彼女は毎日長文書かれているので、
うかうかしてると、たくさんの引用したいブログがたまってしまうんですが💦
今日は少し弱り気味なので、
この投稿に勇気づけられました。
わたしは昔から、他の人を見ていると、いつもいつも「どうしてそんなに強いのだろう」と思います。みなさんにも、そんなことがありますか。
そんな言葉から始まるブログ。
そんなこと、大ありです。
そんな自分は、敗者決定戦に出ることすらできない。なぜなら生まれつきの敗者だから。と思って生きていました。診断されたわけではないので言い切ることはできませんが、きっと嫌なことができないのはもともとの性質もあり、頭真っ白の原因は、鬱のようなものがあったのだと思います。
そういう状態だと、仕事ができないだけでなく、恋愛もうまくいきません。人間関係の構築ができないし、なにをしてもすぐに飽きてしまうし、部屋から出たくないし、料理やお風呂なども全部大変になってしまうのです。
私も「生まれつきの敗者だから」。そんな感じで生きてきました。
もちろん毎日がすべてそういう状況ではないのですが、躓いたときですね。
立ち上がるのにとても時間がかかってしまう。
そんな彼女は
「毎日安定して意欲があって、もう自分をせめて苦しむことはなくなり、毎日が幸せです。多少の妥協や困惑、ちょっとしたジレンマや怖れを抱えながら、家族を持ち子どもを育て仕事をすることができています。このままで文句はなく、もちろん変化を面白いと感じるし、長く長く生きたいと思うほど人生が好きです。」
といいます。
そして、彼女がそこに至ったのは、自分を観察しただけだと。
自分の感情を少し横に置き、冷静にみたんでしょう。
そんな風に思える時はいい方な気がします。
怖さや不安さに巻き込まれている時にはみえないけれど、
ふと、自分のことを客観的に見れるタイミングで、自分のことをみると、
ほんとにいたたまれなくなってしまうのですよね。
そして彼女は「自分さんをかばって生きている」そうです。
私も、そういう風に思いかけています。
ただ、なんというか私の場合、彼女よりも悲壮感が強い気がしました。
そう思ってからわたしは、自分さんをかばって生きています。味方をして、補ってあげて、助けて、楽しませて。わたしだけは、自分に”変われ”なんて言わないで。この身体や思いを、この世でいちばん大切な人のそれとして、徹底的に味方をして、愛して。そうやって自分をかばって生きて死んでも、いいよな…!と思ったんです。
さて、この人の世話をして、この人をかばって生きるぞ。
背負ったぞ請け負ったぞ。いつもこの人と一体だ。大事にするぞ。
そう思いました。この人物はなーーーにしろ、弱い!!弱いのです。
そして自分はそれを直そうとはせず、弱い人として生きています。
これが楽しい。意外と楽しいのです!!
自分を大切にしたい、そう思います。
自分しか自分を愛してやれる人はいないから。
でもそれをまだ愛おしいとは思えない。
思いたいとは思ってるんです。どっちかというと可愛そうだから抱きしめてあげる、そんなニュアンスだなぁ。
弱いのは辛いからできれば強くなろう根性が、どうしても出てしまいます。
自分は凸凹であると認めたほうが楽になれるのに。
自分がそれを認めることができないということは、
他者に向けても凸凹であることを認めることが出来ていないということです。
いうことと思うことが違うんですよね。
これが今の私の「ねじれ」だということに気づきました。
この後彼女のブログは、彼女の弱い部分できない部分が羅列されます。
過集中や弱いところを、自分でいたわってあげよう、これに付き合って楽しんでいこうと思ってから、周囲もそんなふうに変わってきました。こうして何年かの間、いろんな自分に対して「そのままで付き合っていこう」と思えてから、自分を責めてばかりいた人生がパタン。。とひっくり返ったのでした。
わたしは仕事柄、自分を受け入れられないというお方からのご相談を多くいただくのですが、それでいいのだと、わたしは思います。受け入れられないのを受け入れられるように変えなくてはならないのではなくて、受け入れられない自分に、肩を貸して歩く。手をつないで歩く。悲しんで泣いていたら、ハンカチを貸して。そんな自分を、いたわって。
「できてない」と思う自体も、思わなくてもいいのかもしれませんね。
いたわるというのは、なにも共感して「わかるわかる」と言わなくても、
そばでそっかあとじっとみてあげていたり、肩を貸して歩いたり、手をつないだり、ハンカチを貸す。その程度でいいのかと思うと、
ちょっぴり楽になりました。
よく話をする友人から「あなたは完璧主義者すぎ」「まじめ」と言われます。
(その友人本人も私から言わせると私よりもそうなので、お互い言いあっているw)
他者に対しては優しいのに、自分に対してそうできないのは、
自分のことが嫌いなわけではなくて、
どう接していいのかがわからないからだったように思います。
距離感って、難しい。
私はそこをおもんばかることがあまり得意ではないのだなというのを、
この数年で気づいたのですが、じゃあどうすればいいのかがあまりわかってないんです。わからないけれど、
でも、確かに壇珠さんが書いているように、いたわってそばにいて、それだけでいいっていうのは、私の奥底のところで欲している気持ちであるようにも思えます。
自分に優しくするというのは、こんなにシンプルなことなのです。
ただ、その自分を、砂場で遊んでいる子どもを観るようにして眺めているのです。なにを作ってもいい。転んでもいい。わたしがついているから、好きに遊んでいい。そうやってこの世を生きて、死ぬときだって一緒に死んで、一緒にあの世に行けばいい。
改めて考えると、私は弱い自分を認めたくなくて、
弱い自分を見るのが辛くて、
あまりちゃんと見ていなかったような気がします。
だから私の中のきいろちゃんが拗ねてしまうのも、
まあ当然なんだろうなとも思います。
いたたまれないからみないというのは、
その存在を無視されているようなものですね。
私自身が「わたしはここにいるよ!」って、
その存在をみてほしいってさんざん言ってるのに、
その声が私の中からの声であることは、わかっているようでわかってなかった。
そうか、その声は外の人にではなくて、私に言っていたんだ。
なるほど。
なんか同じことを繰り返しているような気がしますが、
何度も何度も繰り返しながら、
腑に落としていくのが私のやり方なのだろうなと思います。
「パッカーン」とくる人もいるのかもしれないけど、
そうなったら楽だろうなと思うけど、
行きつ戻りつ、砂を固めていくようなことをするのが私なのかな。
その砂固めも、自信になるんですよね。きっと。
ガクトさんのこの話、痛いところもつかれますが、正論です。
人生は「1日」というルーティーンの繰り返し。
いかに自分の「1日」の精度を上げられるかが大事なんだ。ここを疎かにして大きな結果を出せる人なんていない。
まずは1カ月でも十分。ひとつのことを1カ月つづけられる人間って、じつはめちゃくちゃ少ないから。
そうやって「1日」の質が上がっていったら、ようやく「1週間の目標」「1か月の目標」というように、目標のスケールを大きくしていくんだ。
あら?
私、ブログ毎日書いて1か月過ぎてるな。
最初は毎日書こうって思って、はじめたわけでもなんでもなくて、
書いていたら、あらなんか毎日になってる。これ続けてみるかな、という感じで書き始めたけど。
実はその昔、毎日書くことを自分に課してて、
義務みたいになったことがあるのでやめたのですが、(相当続けたような)
今は、あまり苦にしていません。
後回しにすると自分の首を絞めるので、
早めに書こうとはしています。
自分の思いをアウトプットすることで、流れをよくしよう作戦なので😊
ガクト氏の言葉に戻ります。
少なくとも、「仕事がうまくいかないんです」とか「途中で諦めてしまうんです」とか言ってる人たちは、はっきり言って「戦略」なんてまったく関係ない。
もっというと、「才能」なんて一切関係ない。
みんなけっこう簡単に「才能がないから」って話をしたりするじゃん? でも、「いや、才能関係ないから」って話なんだよ。うまくいかないのは、ただ「やってない」だけ。
必要なのは「チャレンジする回数」。ただ、「やれ」。
前半の、自分を観察して、いたわるというテイストとはまた違うものですが、
ガクト氏の言葉も「自分を冷静に見ていないとできないこと」です。
どちらも「自分を買いかぶったり見くびったりせずに、ちゃんとみろ」って話かな。
観察していたわって、私自身を元気にして、
そしたらチャレンジも楽しく、、かどうかはわからないけど、
前向きにやれるような気もします。
ここは、チャレンジからでもいいのだけど、
最終的にはどこかで観察、いたわりが入りそうな。
なんだかデザイン思考みたいだな。