昨日、職場の子にプレゼントしたムスカリ。
今日、ヨガの帰り道にあるお花屋さんがなぜか妙に気になって、
帰り道一緒の方と途中から別れて、その花屋に向かった。
そしたら、球根のみ100円のこの子が、店頭のかごの中に居た。
横にいるのは多肉ちゃん。金のなる木。
先日の大雪で、ベランダに出してた彼らはほぼやられてしまっている。
カットしてお水につけてみてるけど、どうだろう。
こんな感じですでにガラス瓶はいっぱい使ってしまってるので、
(写真にはみえないけど4つある)
ムスカリ球根をどうしようかと思って戸棚をみていたら、
昔からうちにある小さなグラス(リキュールグラスかな)が目に入った。
私が生まれる前からあると思われるので、もうレトロの域。
子どもたちが小さい頃に、これをワイングラスみたいに大人ぶって使っていたやつ。
このグラスも、まさか球根を入れられるとは思っていなかったのではないかしら。
でも意外とぴったりなサイズ。
リビングのテーブルが出窓のようになってます。
自分へのプレゼントは、機能があって手助けになってくれるものも嬉しいけれど、
こうしてただ単に愛でるだけのものもいい。
それを、これまで愛でてきたものと合わせることができると、
新しい喜びが生まれる。
これってきっと、人に言っても伝わらないと思うけど、
私の、モノに対する思いのかけ方なんですよね。
私は、いろんなものに思いをかける習性みたいなものがある。
ご縁があったものには、思いがはいってしまいがちだ。
今日は、10年ほど気に入ってきていたニットが縮んでいるのを発見した。
クリーニングに出した時点で「縮み」と出ていたので、
その前のシーズンに手洗いを失敗してしまったのかもしれない。
着れなくなったのは残念だから捨てるしかないのだけど、
私がもうちょっと丁寧に扱っていたら、もう少し頑張ってもらえたのになと思うと、
申し訳ない気持ちになった。
こんな感じなので、命がいくらあっても足りません、みたいなところが私にはある。
人にも、特に子供や学生たちにも思いをかけてしまいそうになるので、
愛を持って見守る程度にしようと、ちょっと頑張らなくてはならない。
その分、自分が所有するものには十分に思いをかけることができるので、
ついつい擬人化してしまう。
人付き合いが苦手なわけではないのですけど、
モノ相手だと勝手な片思いでも十分なので、気楽です笑
もし、モノにも心があったらどうなんだろうな。
私の無償の愛は重いのだろうか笑
重い人と言われたことはありません、念のため。
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思いをかけてしまうのは、自分が思いをかけてもらいたいからだと思う。
目立ちたいわけじゃない。
一生懸命咲いている自分を、ちゃんと見て欲しいと思うからだろう。
評価してほしいとかなんとかしてほしいとかではなくて、
とにかく、ああ、頑張ってそこに咲いているんだねって、
見て欲しいんだな。
それを、誰かほかの人によりもなによりも、
自分に見て欲しいと思ってるんだな。
なんとなく、やっとそれがすこしずつわかるようになってきた。
やっと。
私が何かを愛でるのは、何かを愛でるように自分を愛でたいからだ。
自分も含めて、愛でたいからだ。
あれだけの思いをいろんなものにかけているのに、
なんで私にはかけてもらえないんだろうって、
私の中の小さな私のきいろちゃんは、すねまくっていたのかもしれない。
そんなつもりじゃなく、よしよししているつもりだったけど、
「そんなん、たりんし!」って怒ってそう。
だから、直感に従ってムスカリも買ってきて、愛でてるけど、
これじゃだめなのかな?
リアルに頭が痛くなってきたので、この辺で今日はおしまい。
まあまあ、焦らずに、自分の中の小さな子を育てていこう。
自分育てだね。