ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

執着との対峙 2020.12.23

今日は、先日書いた投稿の一部の続き。
この投稿で、急降下したことを書きました。

miww55.hatenablog.com

潜在意識が引っ張ってくれた動画のおかげで、
この大いなる不安とどう向き合うかの一つの案が私の中に浮かびました。

毎週金曜日の夜にあっている巡禮記のオンラインお話会(メンバー限定)
の今回のテーマは「執着」。

私の中では、この不安の原因が執着であることはうすうすわかっていたので、
このテーマがこのタイミングできたことに、
「さすが私の潜在さん!」と、まず自分をほめました。←これ大切
そしてこのテーマを出してくれた先達さんに感謝しました。

改めて書き言葉にすると、私は直感(主観)→客観の順番で、
感情を整理しているのがわかります。
二つ同じに出ているのだろうけど、
いっぺんに処理できないから、瞬間的にわけているのでしょう。
こうして、書くことで改めてそれらはわけられる。みえる化される。

私の不安は、どうすればいいかわからない時に大きくあふれてきます。
そして執着は、もたらしてもらおうとする思い。
これが得られないとしんどい。自分が動いて得ることができないと、余計にしんどい。
そしてこの執着は、人に言えないことが多いのです。
人に言えるくらいなら、口に出せるくらいなら、もっとライトなものになっているのかもしれません。
こんな悩みを持っているなんて、と思われるのが嫌だったり恥だと思ったりして、
その悩みごと、見ることを避けるのです。
私の不安は、避けていたものが出てきた不安。見える化したくないものを見ちゃった、どうしよう。解決方法わからないよ、という戸惑いも大。

動画の中で、先達さんが言います。
「お不動さんのところにいき、人に言えないことを告白して問答するとすっきりする」と。
「これこれこういうことでしんどいんです。
どういったことで自分が苦しくて、これからどうやって逃れていきたくて、向かう方向性はどうなのか。」とどんなことをお不動さんに伝えていけばいいのかを教えてくれる。
先達さんは、こんなことも言われました。
「もしうまく言葉にできなくても、そのことを伝えようとしていくと、
伝えようと口から出る。

そのことがお不動さんの前にポンと出る」。
これもひとつの見える化顕在化でしょう。
自分の考えていることが、言葉になる。

「これをみて「自分はこんなことが苦しいのだな」とちょっとだけ客観的になれる」とも言われます。
実際、ほんとそうで。
先達さんが話してくださったことが、
私にとっての「自分ができる方法」となって目の前に現れてきてくれたようでした。

私にとってのお不動様といえば、東長寺にいらっしゃる方。
行けるのは23日午後しかない。行くしかない。
自分が動くのは久しぶり、な気がします。

ここまでが金曜日。


土曜日曜。
仕事と勉強会で動けず(これが急上昇した案件)、
でも気持ちがものすごく上がって楽しかったので、
あれ?もうこれで行けるかもと一瞬思ったのですが、
まあ自分でけりもつけてないし、
長年の不安が一日の気分で変わるわけもなく。
みえないだけでどっかりと存在しているわけでした。

月曜日。
氏神様とお地蔵様に、まず今のもやもやを聞いてもらいに行きました。
水曜に東長寺のお不動さんに行くことも告知。
つないでくださいとお願いしました。
(「一緒に行ってください」と言ってなかった悔)

火曜夜。
超久しぶりに裏まんだらを書きました。
表よりも今回は裏だと直感で。
ちょうど自分がそれを出せるタイミングでもあったからでしょう。

ここからは、もうちょっと私の内面を吐露することになります。
人の中身を見るのが不快な方は、ここからは読まない方がよいと思われます。
私は、自分の備忘録なので、書いておきます(全部じゃないですけど)。
書くとまた明らかになることもあるかもなので。

さて裏まんだら。
書きはじめる時には、何も新しいことは出てこないだろうと思っていました。

でもいざ書きはじめると
当初の不安の原因とは違うものが出てきたんです。

「自分に自信がない」
「自分をうまくアピールできない」
「表現できない」

自分は認めなくないが困っていること、
自己卑下になっていることとしてでてきたのがこれらでした。
そして、その原因となったのは

ある人に10年ほど前に言われた「あなたは文章が上手じゃないから」という言葉だったことがつながりました。
ああ、そうかと。
わかっているような感覚もどこかではありましたが、
なんだろう、石を置かれた感じでした。
重しのような、決められてしまったというような。

何気ないその一言は本人は覚えてないかもしれません。
何かの言葉のあやでいったのか、
私の文章を読んで本心でそう思って言ったのかもしれません。
それらの真意は問うてないのでわかりません。
でも、今それを覚えているということは。
この10年間の私の抑えになっている(現在進行形)であることは、
認めたくなかったけど事実で。

それ以来、私は自由に書けなくなりました。
言葉を書くことが、私の中では唯一の自由でした。
でもそれができなくなったのは確かです。
それ以来、圧がかかるような体験をすると、
書けなくなってしまうことが何度かありました。
パワーワードが特に苦手な私に、
プラスして「あなたは文章が上手じゃないから」と言われるのは、
否定が何乗かかかっているかのように感じられました。
書くことで自分を保ち、書くことで自分の存在意義も表現していた私が、
自己卑下が強くなったのはこことリンクしていたんだと、今更ながらに気づいたんですよね。
いわれた言葉にショックを受けたことは認識していたけれど、
ここまでつながっているとは思っていなかったので。根が深い💦

裏まんだらではいろんなことを書いていくのですが、
改めて今見ると
排除したいもの:
「ネガティブワードをぶつけてくる人」、「否定する人」、「私をカモにする人」
と書いています。
この時には、この言葉を言った人は全く想定せずに書いているけど、
なるほど、かなり傷は深いのね。

その上には
取り戻したいもの:
「自分を信じる心」「何を言われても自分を表現するパワー」「押し通す力」「体力」。
自分の直感は信じていることは認識しているけれど、
自分自身の力はまだ信じ切れていないのかもしれません。
「何を言われても自分を表現するパワー」は、前述とリンクしているかも。
書いた時には全くつなげて考えてないけど。それとも今私はつなげているのか?

徒労・恨みの回顧・転換:

という項目がその上にあるのですが、
ここは何を書けばいいのかわからず、希望を書きました。
「安心したい」「自分は自分でいいと思いたい」

「欲望の再確認」の項目:

「自由に表現したい」
「生き生きと暮らしたい」
「思いついたこと全部したい」
これまでのもろもろ書いてきた思いのその奥にあったのはこれらの言葉でした。
「自由に表現したい」「生き生きと暮らしたい」→「思いついたこと全部したい」の順。

最後の「自己許可」:
では言葉がなかなかかけず「直感を信じる」としか。

さて、今日行った東長寺
最初はいつもの通りにお地蔵さん、と思ったら先客が長くお参りされていたので、
先に黒田家のお墓参り。
二代藩主黒田忠之さま、三代藩主黒田光之さま、八代藩主黒田治高さまの墓碑に
それぞれお参りしてきました。博多を治めてきた方々ですからね。
その後、お地蔵さんに参り、本堂にあがって
お不動さん、千手観音さん、弘法大師さんの順に、
それぞれ長々と話を聞いてもらいました。
ぶつぶつと声に出して。

 「誰かにわかってもらいたい」という感情は
裏まんだらを書いたときにも出てきていました。
裏まんだらの底辺のところです。

おそらくそれの前には
「さびしい」があるのです。

日曜の勉強会で私がすごく楽しかったのは、
一人じゃないと思えたから。
このところの私は、ずっと一人。
ひとりでいることは私にとってはとても必要なことだし、
一人でいることを阻害されるなら恋人でも切ってきたところがある私なのに、
寂しいんですよね。コロナも影響はしていると思います。

で、誰でもいいわけではない。
お互いに尊重しあえる、補完しあえる関係が欲しい。
そういうことも、あまり外に出していうのはどうだろうかとも思っていたので、
お参りする時だけ口にしていたけど、
自分がドロドロしてると相手と尊重しあうもなにもないよねとも思ったり。
あ、また自己卑下モードに入りかけ??

この辺がわからないのです。
内省と自己卑下が紙一重
もう内省しなくていいのかなぁ?

話を東長寺に戻すと、
最後の弘法大師さんのところで、
最後の最後に出てきたのが「私は我慢したくない」でした。

3年前に言っていた言葉。
また出てきましたが、3年前とは意味合いが違うような気がしています。
3年前のこれは、まったく自分の直感も信じ切れていなかった状態で、
他者に対して恨みつらみもものすごく持っていたし(多分)、
他者に向けて「私は我慢したくない!」と
ぶつけたい衝動がものすごくあった気がします。

今の私は、ずいぶん訓練して笑、自分の直感だけは信じられるようになり、
すこしずつほぐれてきたところもあるんです。これでも。
今回の「私は我慢したくない!」は、
私に向けて私の中のきいろちゃんが叫んでいる気がしました。

おお、これは久しぶりにきいろちゃんの本音がきけたのかもしれない。
と、書いたとたんにものすごい動悸!
胸が詰まるかと思った!
「ああ、きいろちゃん大丈夫大丈夫」と胸に手を当てたらスーッと落ち着きました。
なんだ、やっとあえたよ。2年以上ご無沙汰。
そして時刻は2:18.
ほら、私の誕生日。
そして今みたら2:22.自分を信じろのエンジェルナンバー。
このところ、222は連発して見せられてます。
この1.2か月、ほんとに激しい数字のメッセージ。
私の潜在意識(きいろちゃん含む)は何を私に信じろというのだろうと思いますが、
きっと今がその時なのだろうなとは思います。
なにをしなきゃいけないのかわからないけど。

私自身が不安を抱くのは、
不安で何かを守っているのかもしれないとも思います。
自由になったら、何がいけないのだろう?
これ以上傷つくのが嫌なのかなとは感じます。
でも、結果的にその思いを持ち続けることが
私が私を傷つけることになるんですよね。
これって頭ではわかるんだけど、まだ腑に落ちない。
ここなのかなー。

今日はここまで。