ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

町内一斉清掃に出た後に考えた 2020.11.19

日曜は、町内一斉清掃の日。
久しぶりに出ることが出来た。
棟横の大きな階段を4人くらいで掃除していく。
枯葉がとにかく多く、他の人たちが終わって帰っていくのに
なかなか終わらず、わりと最後までやっていた。

一人だけ知っている方がいて、その方とご近所さんの近況なんかをお話ししたりする。
直接的には知らない他の方とも、「枯葉多いですよね」とか「暑いですよね」とか会話をしながら、草むしったり、枯葉を集めたり。

顔は知らない方でも同じ地域の人だという認識があるから、自然と会話が生まれる。

掃除の最後は集会所に行き、ごみを出し、掃除のお礼がわりにごみ袋を2枚いただく。
この日は「年末餅つきもできないから」と紅白の小さなお餅もいただいた。

今回は、自治会企画で朝倉の新米やお野菜の販売が企画されていた。
これも前回はイベントとかぶっていけなかったので、
今回は行こうと決めていた。
お米は1キロ300円を3キロ、きゅうり3本100円。
子ども会のころからの付き合いのTさんやYさんとも久しぶりに顔をあわせて、
近況報告。
近くに住んでいるのに、会うのはSNSばかりだったので、久しぶりだ。

うちの団地は10棟ほどあって、200戸くらいだが、
こういうのに出てくる人たちの顔ぶれは大体決まっている。
(私も出てこない人の中に最近は入っている)
いろんな理由があるので、一概に出てこないのが悪いとは思わない。
階段を掃除している間にも、
「すみません。お疲れ様です」と足早に降りていく方々を数名見送った。
仕事なり予定なり、また体調なりがあって、出られない。
そういう思いが「出られる時に出よう」と続けばいいのだが、
罪悪感だけ残して申し訳ないから出れなくなるというのもあるかもしれない。
そういえば、あの顔もあの顔もみてないなと思う。

近年の自治会は、会長さんが「自分がやる」と言い出してやってくださる
男気のある方で、この方が活性化の糸口を開かれた。
そういうわけでこの企画も、今年から試みられている。

子ども会は子どもが少なくなり、廃品回収ができなくなった。
廃品回収を辞めますという知らせが入ったが、
高齢者が多くなったこの地域ではそうなると困る方も多く、苦情が多かったのだろう。
結果、おやじの会が設立されて廃品回収を担うことになった。
この日も、うちのところの階段掃除を請け負ってくれていたようで、
若いお父さんが子どもを連れて階段のところの電灯掃除をしてくれていた。
Tさんは、「お父さんが出てくると子どもも出てくる。いいことなのよ」という。
確かに。

お野菜販売のところでは、2,3歳くらいの子が大きなかぶを持って
よろよろする姿がかわいくて、Tさんと「こどもとかぶって似合うよね」
なんて話をしていた。

私たちよりも年上の方々も、お久しぶりの方も多いのだろう。
あちこちで話の花が咲いていた。

コロナ禍だから、マスクもしているが、べたっとくっつくわけでもなく、
軍手もしているし、そこそこなるコミュニケーション。

今までは普通にあったコミュニケーションが、普通ではなくなったこの数か月。
人は思う以上に一人では生きていきにくいのだと思う。
誰かとコミュニケーションを少しずつでもとって生きていくことが健全だなと感じる。

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長々と、町内掃除報告をしたわけだけど、
これを書くには理由があった。

今回の町内一斉掃除に、私はなぜ出たのか?
その理由をじっくり考えていたからだ。
取りあえず、この日の出来事を書いてみて、
改めて思った。
私は、こういう出ごとが嫌いではないということを。

趣味のように、自分から企画したり
どんどん出ていくことを望んだりはしないが、
定期的に掃除に出ることは、
そもそもその地域に住んでいるものが行う義務だと自然に考えている。
が、日常では「ああ、掃除でもしてこようかな」
と思う程には暇でもなくて、設定できないから、
自治会で日を決めてもらって動く分には、
ありがたいし楽させてもらってるなと思う。
運営する側の自治会や子ども会もやったな、そういえば。

おそらく、私がこういう思考なのは、
自分が幼い頃からの経験があるからだと思う。


私が育った町でも、同じように町内掃除や隣保班の掃除は良く行われていた。
掃除の時には一家総出で掃除に出ていた。
掃除に子どもは足手まといになるだけなのだが、
家の中で見る人がいないので、当然こどもも外に出る。
近くのおばちゃんたちが「あら~、み。ちゃん、大きくなったわね」
とか「み。ちゃん、おいで。飴あげよう」とかかまってくれるものだから、
嬉しくてたまらなかった。
そして、自分も見様見真似でやってみたかった。
気の利いたおばちゃんが、私たち用にできる仕事を振ってくれると、
張り切ってお手伝いをした。
私にとって、町内での掃除はイベントだったんだなと思う。
やることも面白かったし、いろんな人達との会話も楽しかった。

今思うと、そこのところは今でも全く変わってないのだと思う。
大人になって、もちろん義務だと思うからやる部分もある。
だが、楽しかった記憶があるから、自然にできるのだ。
大人になった今では、楽しいことばかりでもないと知っている。
でも、掃除自体はあまり苦にもならないし、逆に綺麗になって気持ちよい。
今回もみんなで「あ~、きれいになりましたね~」ってニコニコしながら終わったし。
結論、楽しいのだ。

先日、講義の中で学生に「社会に関わる、ってどういうことを言うんですか?」と聞かれた。
商学部生だし、彼らが学んでいるゼミやほかの講義でもさんざん聞いて要るはずのネタなのだが、彼ら自身は多くが社会に関わっている自覚がない。
「社会」というと、「社会人になってから関わるもの」という風に思っている子も多そうだ。

この子たちは、私のような経験をしていないのだろうか?
でも、そうとも限らないようだ。
田舎から出てきている子も結構いるし、
小さい頃の子ども会やら地域掃除やらの経験がある子は一定いるようなのに。

ちょっと前の講義で、ある学生が言っていた。
「社会問題があることはわかる。でも関心はない。自分ごとに感じられない。」
別の学生は、
「楽したいんすよ。あんまり人とも関わりたくないし。正直どうでもいいんですよね」とブレイクアウトの時に言っていたのを聞いたが、正直だなとおもった。
多分私がいないと思って言ってたんだろうな。

実際我が家の18歳もその典型で、
「なに、掃除とかいってなんかくれるの?」って感じだ。
ちなみに、生まれた頃からここで掃除や廃品回収を経験している。
私と同じような経験をしているはずなのに、やらされ感、受け身の経験しか持っていない。いや、思い返すと、彼らはそれなりに楽しんでやっていたこともある。
廃品回収に行って荷物をもってあげたら、おじいちゃんにお菓子をもらったと喜んで帰ってきたり。

でも、その時の記憶はきっと今はどこか奥底に沈んでいるのだろう。
知識的に自分の労働が対価を産むことを知っている年頃の子だからか、
お金にならないことは無駄だと言い切ってしまう。

それだけ余裕がない世代なのかもしれない。

また自分のことに戻る。

うちは、私が小2の頃に父の転勤で福岡にやってきた。
私が住んだ大型団地には、同じような核家族がいっぱいだった。
そこでも、同じように掃除は行われ私も出ていたが、
田舎でおじちゃんおばちゃんに囲まれていたような安心感や楽しさはなかったようには思う。

掃除だけで社会を語るのもなんだなと思いながら、
ふと思い出したのは、母親がやっていた生協のことだ。

当時の生協は、市民活動から立ち上がったものだったので、
組合員が自分たちで何でもやることが、ごく当たり前でもあった。
(昔は生協でなくとも、今のように消費者が神様のようではなかった)

母はお当番を自分で買って出て、豆腐や卵をはかりで測って分けたり、
注文を集めて集計したりしていたことを思い出す。
そこまでして、なぜスーパーでの食材ではなく生協にこだわったのか。
家族に安心安全な食材で健康な食卓を提供したい。
こういう活動が根付くことが、生産者と消費者をつなぐ活動になり、
安定して安心安全な食材を供給できるようにする。
月並みではあるが、そういうことなのだと思う。

そして、その志向は私にも受け継がれている。
家族も含め環境の影響は、その人の思考・志向に大きく影響する。

今私の中では、生協を選ぶことは自然なことだ。

掃除と同じ感覚が、そこにはある。

自分で選んでいるようで、そこには親や環境からの自動的な選択意向が働いているのは否めない。
だが、それを改めて考えてみることはとても大事なことのような気がする。

自分はなぜそれを選ぶのか。
掃除については、結局のところ心地よさや楽しさ、嬉しさだった。
個人のその思いと誰かのために・社会的に、
すべきこと・いいことが重なるのはベストなことだ。

生協については、安心安全を買うだけではなく、そこに自らが関わることがありたい社会を作る一歩になることを自覚しているから、それを選んだ自分の充足感も大きい気がする。
これも個人の充足感・喜びと消費活動が、社会に寄与することと重なれば、2ついいとこどりできるわけで。

あれ?なんの話をしていたのだっけ?
掃除からはじまって、
なぜ自分には社会への関心があるのか、ということが言いたかったのだ。
そして、今の子どもたちの、社会への関心のなさに、いや、なさというよりも社会に志向がいかない状況に、危惧を感じずにはいられないのだ。

環境の力が大きいということは、時代性も大きく関わってくるということ。
今の子どもたちは、社会貢献に興味がある層とまったくない層が二極化している感がある。←エビデンスはとっていない。
興味があるといってもこちらは少数。
興味が無い層が圧倒的に多そうなのは、一層核家族化は進み、いなかにいても多様な人々の中で育まれるような体験をしていないこと、
消費者優先の志向が高まり、
こどもたちが自らをサービスの受け手としか認識していないこと(サービスの受け手である経験しかしていないこと)に大きな問題があるように思う。

掃除や生協などの関わりは、受け手が主体者になる経験ができるものだ。
得にはならないが、そこで受けられるものがあった。
がそれらは有形ではなく、お金にもならないので、なきものとして扱われることも多い。

サービスの受け手はラクだ。
考えなくてもいい。サービスを提供する側が考えることを迫られる。
提供側は、それが差別化や収益の原資となるから、求められるサービスを次々に考える。
こうして、提供側と消費側はどんどん乖離していく。
消費型で小さい頃から育ってきた子どもたちが、提供する喜びや楽しみ、自らが提供はしなくともそんなコミュニティで何かを担う喜びや安心感を感じることなく、大人になっていく環境がどんどん増えてしまっている。
結果、経験をしたことがなければ、それらを想像することもできない状態になるのは当然だ。

ただ、彼らは忘れているだけなのではないかという気もするのだ。
想像力が破壊される受け身の姿勢から、いつ彼らが当事者として動き出すのか。
その動きの原動力にどう気づかせるべきなのか。

問題はすでに起きつつあるが、当事者が当事者にならないと問題であることも認識できないから、それを待つのも一つだろうが、社会が崩壊する可能性と、彼ら若者のメンタルが持たない可能性も感じていて、非常に危惧している。
危惧はするが、もはや感覚が薄くなっている受け手の彼らに、どんなしかけをしたらいいのかというのは、正直アイデアがない。
ヘレンケラーに言葉を与えたアン・サリバンのように、
感覚を呼び覚ますようなことを地味に粘り強くやる方法しか思いつかない。

長々書いたけど、まったく解決にならないものになってしまった。
文もこなれていないけど、
これ以上この文に手を入れるのも時間の無駄のような気がするので、
とりあえずここで終わることにする。