ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

不安だから欲しがる私たちそして死とはいきるとは 2020.3.3

こんな時間(1時55分)だけど、書いておこうと思います。
何があったわけでもなく。

でも、ずーっともやもやしていたことが、
今日、ふと「そうだよなぁ」と思えたので。

おそらく新しい仕事を始めてから、
私の中にはやっぱり他者間との関係性を気にするところと、
自分はできることが少ない(価値が出せない)ことに対する悲観が強く出てきていて、
これがどんより続いている感じがある。

慣れていないことは、慣れていないだけだ。
できないことはやっていないからだ。
もちろんそれはそうだけど、
そのことを、消化できないでいる。

消化できるといいのだろうけど、
消化しなくてもいいじゃん、今のそういう自分を認めたら。

そういう気持ちがふと少しだけ降りてきたのは、
ベランダで土ふるいをしている時。

このところ、精神状態があまりよくないので、
ベランダで土を触ろうと、夜中のアマゾンポチ大作戦をし、
ガーデニンググッズを少々購入。
車で自由に買い物をするという経験がない私には、
アマゾンさんは車のような存在だ。

明日からは雨というので、
今日の夕方、まだ明るいうちにとかれてしまったプランターから土と石を出して振るう作業を淡々とやっていた。結構これすきなのだ。
古い土は、黒いビニール袋に入れて1,2週間ほど日に当てておく。
そのあとに回復材を入れて使う。

プランターの方は新しい土を買ったので、そちらを入れて球根を植える予定。
100個も買ってしまったので急がなくては!

今日はそこまでするつもりが、途中で今日は大腸検査に行った夫がおえおえ言いながら帰ってきたもので、どうにか切りのいいところまで終わらせた。

なかなかどうして、ゆっくり自分のことを考える時間はない。
いやあるのかもしれないけど、机に座るとPCの電源を入れてしまうし、
そうなるとどうしても集中できず、仕事したりメールチェックしたりしてしまうわけで。

この習慣はどうにかしなきゃとマジで思う。
というよりも、自分と向き合うことがやっぱり不足しているのだ。
土に触れることもできていなかったので、
少しの時間だったけど、非常に効果が早かった。
泥遊びがしたいなー。そのくらいドロドロで団子作りたい。
団子作りセラピー、いいかも。

なにがしたいんだろう?というのが、わからなくなってきた。
実際今までやってきたようなLSPや書くPのようなことは好きだ。
でも、これがこれ以上にならないのは、
なんでなんだろうか。
私に商売的なセンスがないからというのが一番なのだけど、
今の自分くらいの技術で、どう売っていけばいいのか、
どのくらいのところにどんなものが提供できるのか、それをどう作ればいいのか、
ずっと考えて答えが出ないのは、
それがいまいちなのか、それとも動いていないからなのか。
いいきっかけをつかみたい。
このいいきっかけっていうのは、環境もあるけれど、
どっちかというと自分のなかのきっかけ。
でも他者とのきっかけもあるのかもね。

安心して仕事がしたいなと思った。

今私がこうして不安定なのは、不安だからだ。
今日それが改めて土いじりをしている時にわかった。
自分ができるかどうかの不安、コロナの不安、体の不安、心の不安、お金の不安、家族の不安。。。
だから、足そうとする。
何かを足して不安を解消しようとする。
人はないと、不安になる。
今回の騒動は、そういうことが顕著にわかった。
トイレットペーパーがなくなる不安、マスクがなくなる不安、アルコールがなくなる不安。みんな同じだ。

みんな同じでも、私はどうにかなるって自分を信じていたい。そんな自分を取り戻したい。

ひな祭りでしたね。
ひいばあちゃんと伯父の命日でもありました。
引いばあちゃんの亡くなった時が私の初の近親者の死でした。
久しぶりにあったその日に、もう夕方には亡くなっている。
時間にして3時間くらいだった。
ひいばあちゃんはもうすぐ100というお年頃だったから、
行けば寝ている状態で、声をかけたけどねているよーっておばあちゃんがいって、
それからおうちの手伝いをして。その日私は翌日国立の2次試験を受けにきていたのだった。福岡から父の車で二人で来てて。
おばあちゃんが息してない?と言い出して、それからがもうドラマのようだった。
お医者さんが来てご臨終ですって言って、それから通夜の用意が始まり、たくさんの人が来て、ああこのくらいの時間だったかもなぁと思い出す。36年前だ。

でも今さらに思うのは、いいものを見せてもらったと思う。
実際看取れてはいない。でも仮通夜通夜葬儀と、

旧家が家で執り行う葬儀をみせてもらえた。

人が死ぬということはこういうことだと、私の中にはインプットされた。


引いばあちゃんは何を思って死んでいったのだろう?
もうかなりぼけていたから、老衰ということではあった。眠るように亡くなったのだろうと思う。いい死に方だ。
かくありたいと思った。
今はこんな死に方は贅沢でできない。

でも、今は、人にどうしてもらって、どんな環境でというのもあるけれど、それも大きいけれど、私は、自分の納得のいく人生にどれだけOKを出せたかなってこと。自分の人生にOKを出して死にたいなと思う。やり切らないとOKは出せないよね。