ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

35年目の命日 2019.10.14

今日のFBからの転載です。
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13日(日)は、書くPのMTGへ。最近週2で固定の仕事を入れているので、
飛び飛びにしか入れていません。

久しぶりに入ると、見えるものもあります。
学生の士気にもかかわるのでダイレクトに言うべきかどうかは悩むこともありますが、現在の状況に疑問を持っている学生もいることを知り、
思ったことを投下しました。届くのだろうか?

そのMTGの後は、母の施設に。
10月13日は父親の命日でした。35年経ちました。
父の写真は、母の部屋の本棚のところに飾っているのですが、
この日は近くのテーブルに移して、写真を見ながら母と話をします。

今更ながらに思うのは、父が生きていたら、私は今こんな仕事してないだろうし、
結婚も違う形になっていたと思うし、そしたらこどもたちとも会えてないかも、
と思うととても不思議な気さえします。

母にその話をし、「おかあちゃんだって、パパと会わなかったら私は生まれてないんだもんね」というと、
母は父の写真をみながら「パパにであったから、おかあちゃんは幸せになれたんよ。」といいます。
結婚生活よりもなくなってからの方が長くなってしまったのに、こうも一途な母。
それにはやはり理由があるようです。

母はあまり語りたがらないのであまり聞いてなかったのですが、
母の両親は母が高校生の時に亡くなっています。
それから苦労した話は聞いていたのですが、
それ以前の話は、お母さんが厳しかったということくらいしか聞いてなくて。
今回それについて触れてみると、父親は頭もよく戦前は評価されていたが、
戦後は所属する造船会社が不景気で、収入も少なくなり、
母親が生計を立てる必要があったとのこと。

はじめて聞きました。母の母は和裁やお花を教える先生をしていて、
お弟子さんが何人も家にいたという話は聞いていましたが、
好きでしているのだと思っていたら、そういう事情もあったようです。
そんな状況で、甘えたいのに、甘えられない。長女頑張る。
ということをやってきた母。自己肯定感低く卑屈に生きていたといいます。
その話を聞いたときに、ああそうかと思いました。

私は母親のそういう思いを、映して自分も生きてきたんだと。
母も厳しい人で、父の収入じゃ生計が立てられず内職をしていました。
だから忙しい。かまってもらえない。
母と私は同じ状況で、同じような思いを持ち、自己肯定感低く育ってきたのでした。
それで合点がいきました。
なぜ自分がこうまで自己肯定感が低いのかがわかった気がしました。

とはいえ、母は強く生きました。
父と出会い、また父が亡くなってからはその両親が母の本当の両親のようでした。
母は言います。「自分の親よりも、おじいちゃんおばあちゃん(父の両親)の方が自分の親って感じがするもんね」と。
祖父母は私にとっても特別な存在です。
彼らはほんとにやさしい人達だったね、
癖もあったけどねと、母と笑いながら話ができるのは幸せ。

母と私はこういう部分では似た境遇で同じような思いを持ちましたが、
性格は違います。

母は私と違い、スパンと腹を決めることができる人です。
「こうなったら仕方ない」と切り替えることができる。
「私はそれができないんよね。そうありたいんだけど、
その方が効率いいのに、ずっといろいろ考えてしまう。」
って言ってたら、母が笑いながら「それも、それぞれよ。」と言ってくれて、
なんだかほっとしました。

やっと肯定してもらえたからでしょうか(笑)

写真は、私の大事ボックスに入っているもの。
母の字です。

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父親が亡くなってから、母からもらったものです。
おそらくは、父親の財布かなんかに入っていたものなのでしょう。
古い5千円札。
これだけは、どうやっても使えなくて、苦しい時も多かったけど、
お守りのように持ってきました。

生きてるうちにしかお金は使えないから、
どこかで使わないとなと思いつつ、まだしばらくはお守りとして持っておいてもいいのかなと思っています。