タイトルとは全く関係ないのですが、最近たくさん夢を見ます。
ここ最近までは、親類たちがたくさん出てくる夢でしたが、
今日は、仕事上の関係者たちが出てくる話。
夢の中で私はプロジェクトをやっているのですが、
一緒にやっている方から会話もまともにしてもらえず、ある指示を出されます。
まだ時間があるから、島の向こう側をぐるっと回ってくることみたいな。
結構過酷なんです。
途中で、「これやってると、絶対本番の時間に間に合わない」と思うのですが、
本番の会場までの道筋が教えてもらえない。
連絡を取ろうにもスマホも荷物も置いてから行くように言われていたので、できず。
途中で、知り合いの方のところで休ませていただき、
私が恐らくそうだろうと思っていることを伝えると、
その知り合いの方は状況を理解されていたらしく、
うむうむときいてくださいました。
そこで私は、自分の思っていたことが当たっていたことを知ります。
要は、外されていたわけです。戦力外通告を言葉でなく事実上の更迭事実で。
私だけではなく、数名同じような感じで。
そこからは、夢の中なのに感情が湧き出て、もろもろ暴言吐きまくっておりました。
で、訴えるための動きに出ようとしました。失ったものは元には戻りません。
気持ちはお金で賠償してもらうしかない。。。。
その夢の中で思ったのは、「聞いてくれる人がいてよかった」でした。
思うことを聞いてもらい、聞いてもらえる安心感があるから、
吐き出すことに罪悪感を感じずに素直に吐き出せる。これって重要だなと。
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似たような現実は、この1年間私の身にもあっていて。
ああ、私はこの怒りや悲しみを消化できていないんだなと、
改めて実感したところです。
現実的に賠償金を請求しようとは思いませんし(そんな話でもない)、でも
話はかみ合わないし。聞いても返事してもらえないんですよね。
それって自尊心をばっさりやられてしまうので、私も聞かなくなってしまう。
なんというか、スタンスの違いや動き方の違いがある人と行動するのって
とても難しいよねというお話。
私は人間関係においては立場の違いはあっても、
できるだけ平等に付き合いたいと思ってるので、
直接言ってくれたほうがその時はショックを受けても、
次に向かうステップが踏めるのでいいとおもうのですが、
自分からは絶対言わずに仕向けるタイプの人がいて。
なんだかそれって私から見ると卑怯に見えてしまう。
それでいて、あとで「そんなことはしたくなかった」みたいなのって、
昔の任侠の世界じゃあるまいし、ですよ。
まあ、でもそういう世界が好きで生きている人がいるから、
それはそういう人同士でやってもらえればいいかなと思うわけで。
性格的にビジネスライクができなかったのですが、
自分が思い描くことをするためには、
ビジネスライクも必要なのだろうなと思います。
私はうそをつくのが嫌いです。
だからビジネスライクって、自分の心にうそをついているようで、
ずっと避けてきたんだけど、そういうこともしないといけないのかなぁ。
と、50過ぎてやっとこんなことを言ってる私。
20代からビジネスライクに割り切っていることができたならば、
私の人生は今のようではなかったはずだから、、
どっちが生きやすいのかは、おそらくビジネスライクなのだろうけれど、
そこに納得できるかどうかが問題です。
辻仁成さんのツイッターにあったもの。
ほっとけばいいこと、十選
— 辻仁成 (@TsujiHitonari) September 7, 2019
自分の責任じゃないこと
後出しジャンケンのような言いがかり
同僚のヤキモチからの嫌がらせ
たまに聞こえてくる陰口
偉そうな人の小言
戻ってこない返事
話しをちゃんと聞かないで騒ぐ人
批判から始まる人
死にたいが口癖の人
別にどうでもいいんだけど、から話しが始まる話
ほんとそう思う。いちいち反応しないことが原則なんだけど、自分の意に反したり、
むかついた場合は、ちゃんとその日のうちに気持ちを処理しないとな。
相手は関係なく、自分の中で自分の気持ちの処理をすることって大事だ。
人間関係って、実はいいとか悪いとかの話ではない場合が多い気がする。
あの人にああされた、こうされたと思いがちだし、
実際そういうことは多くあるのだけど、自分主体でものをみてしまうわけだから、
完全に客観的に状態を見ることって、
実は人間はできないのではないかと思う。
そんなこと言ってるとらちがあかないから、法律があるのだけど。
そこまでいかない人間関係でいけば、どんな見方をしたとしても、
いわゆる合致点というのはすごく希少で、だからこそ人は、
言葉でコミュニケーションしないとその合致を確認できないのだよね。
で、言葉でコミュニケーションの前に、
お互いが自分主体でものを見ているという前提をもっていること、
相手が見ているものは自分が見ているものとは違うのだとしっかり把握していることは、とても大事なことだと思うわけで。
私もなかなかそれができなかったのだけど、12月に沖縄に行き、
いろいろあってその後から何度となく考えていることだった。
私にしては、ずいぶんとこの辺の見え方が変わってきたように思う。
前置きが長くて、もうここでこの投稿終えてもいいんじゃないかと思うけど、
愚痴で終わるのは嫌なので、宮島・広島の旅回顧、呉編に。
今回から、宮島は離れるので「宮島・広島の旅回顧」にタイトル変えました。
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(この旅行記は、7月28日のものです)
朝からお参りコンプリートし、気持ちよくホテルに戻り朝ごはんを食べ、
準備をして、ホテルを出ます。
ホテルから船着き場までホテルの車で送っていただいたのですが、
車はずっと裏道を通ってくれて、宮島の人々の暮らしぶりが垣間見れた気がしました。
京都ともちょっと違うけど、昔の街道沿いの道のような。
今度来ることがあればこの辺もそぞろ歩きしてみたいなぁという感じ。
船で宮島口まで戻り、JRの駅までまた地下に降りて上がって、歩いて、
JRの駅からは、まず山陽線で広島まで戻ります。約30分。
駅のコインロッカーに荷物を預け、身軽になって、呉線で呉まで。これも約30分。
呉は軍港の町というイメージしかなく、
軍港の町といえば自分の生まれ故郷の佐世保。
先日話題になった「この世界の片隅に」の舞台でもあるので、場所的なイメージはありますが、具体的に何があるのかはあまり調べておらず(宮島の方に注力していたので💦)
まあ、下調べしないものもあっていいのかなと思っていたし、
呉に行きたいプランは夫が出していたので、お任せです。
海岸沿いを走る呉線。海がきれい。
かと思うとかなり古びた工場が立ち並ぶ地帯もあり。
呉につくと、まず観光案内所に。そこで地図とおすすめを聞きました。
お昼時なので、まずは海軍カレーを所望。
知らない人のために書いておくと、海軍カレーとは、海軍や自衛隊の艦艇、潜水艦では曜日感覚がなくなるため、金曜日にはカレーと決めているそうで、カレーはみんな大好きなので、作るコックさんたちも力が入るそう。
船ごとにレシピがあるそうです。
(私が見たテレビでは、コックさんごとに味が違うと言っていたような。その船のコックさんということだったのかな)
「ハイカラ食堂」をお勧めされ、行ってみましたが、
団体客も多いのか、片付けに人が足りてない感じで、まったく時間が読めず。
なので下の休憩所で海軍風カレーをいただきました。まあ、カレーはどこで食べてもそんなに違わないよね、、って思う(^^;
呉のカレーは、潜水艦ごとにレシピが違うようで、
ハイカラ食堂さんでは、「そうりゅう」のカレーが味わえるそう。
セットにはクジラかつとかポテサラがついていたみたいだけど、待ってる時点で完売していました。
さて、気を取り直して大和ミュージアムへ。
呉といえばここでしょうか。正式名称は呉市海事歴史科学館というらしい。
戦艦大和はここで作られたそう。
日本一の海軍工廠のまち。
※海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。
私の二人の祖父は、どちらも佐世保の海軍工廠出である。
私が当時聞かされていたのは、海軍工廠には、優れた人しか入れないので、
海軍工廠出というとそれだけで、素晴らしい、認められた人だということだった。
父と母が結婚した際、もう母の父(祖父)は亡くなっていたのだけど、
「海軍工廠出」ということで認められたという話を聞いた。当時は親がいないというのは、結婚するにものすごくハンデだったそうで、祖父のことを知っている人が親類にいて、どうにかとりなしてもらえたそうだった。そういう時代だったんだよね。
先日母に聞いたところ、海軍工廠には勤め先からの出向的な感じで派遣されていたそうだ。なるほど。二人の祖父はかたや造船会社、かたや米軍のShip repairに勤めていた。
呉に話を戻すと、戦後は最大級のタンカーを造船するまちに。
長崎でも佐世保でも見たことのない大きい(長い)タンカーが!
現在大和ミュージアムでは、2020年1月26日まで、「海底に眠る軍艦」という企画展があっている。
戦艦が多く海に沈んでいるのは、多くの人が知っている事実だが、引き上げられたものはとても少ないそうだ。
お金もかかるし、何より深いところに沈んだものを引き上げること自体、難しいのだろう。
近年潜水調査の進展により、日本海軍艦艇について、新たな発見がされているという。
平成27年には民間調査により「戦艦武蔵」が発見され、
平成28年には呉市が戦艦大和の潜水調査を実施(えらい!)、大和と第二艦隊駆逐艦「礒風」が発見されたという。
企画展では、太平洋戦争の経過がパネル展示され、撮影された海の中の戦艦の様子や引き上げられたものをみていきました。
戦争の様子を紹介するパネルからは、
日本が良かったのは最初だけで、どんどん悪くなっていくのがわかります。
わかっていても、
誰もどうすることもできなかったんだろうな、、。
1/10サイズらしい。
私の世代は、大和といえば「宇宙戦艦ヤマト」。息子もどっちかというと宇宙戦艦の方は知っている。「波動砲は?」とか言っている。波動砲は、本家にはありません。
近くで見るご一同様。
この10倍と言われても、いまいちピンときませんね。
このジオラマには大きさがわかるように、人がちょこちょこいるのですが、見えるかな?
この後、常設展も見ました。
人間魚雷「回天」の展示もあり、回天に乗った方の遺書(と肉声テープ)が流されていて、ちょっと直視できませんでした。
詳細はこちらにあります。↓
22歳の海軍大将 塚本太郎氏のものだそう。たまらない思いです。
この人間魚雷、上からの指示で作られたのではなく、現場の兵隊さんの要望だったとか。
戦地で戦っていれば、自分たちが不利なことは重々承知なのでしょう。
人間魚雷ということまでやらなければ、逆転できない。
そう思い上に願い出ていたのですが、さすがの上もずっと却下していたものの、4度目くらいで、OKを出してしまったそう。
あの状況下で何が正しいのかを判断するのは、誰にしても難しかったのでしょうが、
せめて決定権のある人は希望的観測ではない判断をしてほしかった。
でもこういうのは、その時代にいないから言えるのかもしれません。
さて次は、大和ミュージアムのお向かいにある「てつのくじら」館へ。海上自衛隊呉資料館が正式名称。
これ本物の潜水艦です。でかい。
潜水艦の中に入ってみました。
外から見るととてつもなくでかいのですが、中は非常に狭く、寝床も昔の寝台列車のような三段式で、それも座れるようなスペースはギリあるかどうか。
娘の彼が「わ~、精神的に耐えられそうにない」。その通りだと思う。
結構見るのに疲れてしまったので、カフェで一休み。
映えるドリンクなのですが、うまく撮れませんでした。右はみっくすじゅーちゅ。
なにがミックスされてるのかよくわからなかったけど、一息付けました。
左はなんだっけ?
「呉くん」のクッキーが載ってます。
あっという間に夕方になってきたので、広島に移動します。
呉の町。こうしてみるとやっぱり佐世保に似ている気がします。
今度は40分くらいかけて広島駅へ。
荷物を取って、歩いてホテルに向かいました。
今回はここまで。
次回できっとラストです。きっと。