今日は、息子の高校の入学式でした。
2年も続けて入学式に出るとは思いもしなかったのですが、
それを言うと息子は、
「ぼくは小学校の入学式にはでとらんけん、やっとみんなと数が合ったと!」
と言います^^
そういえば、彼の小学校の入学式は、まさかのインフルエンザ罹患で、私がその日の午後に、ひとりで書類やらなんやらを取りに行ったのでした。
そういわれればそうなんですが。
さて、高校には編入で入ったので、
今年は新入生ですが、来年は卒年生になります。今のところの希望としては2年間で卒業する予定。
入学したので、また高校生という属性に戻ってこれました。
学校が始まって、やっと私も肩の荷が下りた感じ。
それまでも、彼は頑張ったけど、親のサポートもどうしても必要だったので、
それが要らなくなり、後は自分で頑張る、その環境をつくるところまでは持って行けたなというところまで来たので、ほっとしたという感じです。
娘の時には、ここから暴走したのでなんですがw
まあ、適度に羽目を外しながら、自分でヒヤリハットを経験しながら、自分の道を歩んでいってくれるといいなと思っています。
この数日は、この息子の入学式の準備と、
週末に行くことにした生まれ故郷への旅の準備で、そわそわしていました。
叔父がお世話になっている施設の面談に、重い腰を上げていくことにしたのです。
今年は、行くことになるだろうという予感も大きくあったので、それに乗っかりました。
移動の時間も含めると予定が入りきれないので、無理して日帰りするのをやめました。初お泊りです。実家がある時にはホテルに泊まることなんてなかったので、新鮮。
いろいろおまいりもしたくて。
それが終われば、やっと本当の意味で私が少し落ち着くような気がしています。
ここのところ、ずっと実家あたりの夢ばかりみていたので。
私の今の課題は、自己肯定、自己承認。
これだけではないのですが、ここがとても大きいと思っています。
自分を愛す、信じる、認めるということは、難しい。
というか、どうすれば自分を愛していることになるんだろう?信じるってなにをどうやって?
なんて風になってしまいがち。
自分が大好きというよりも、自分は愛される価値があるのだろうか?という疑問符を持ったまま大人になってしまった私の自覚があるので、
「あんたはかわいがられて育っていたんだよ」と言われても、
その時分の私がそんな風に思えていないことの方が大きくて、
その認識を認められない、納得できないでいるのです。
「そんなの変えればいいじゃない。かわいがってもらっていた事実を受け入れるだけよ」と言われれば、全くそれが正論なんです。
だけど、なんというのか、私にとってかわいがってもらったという体感や感覚がないこと、実感がないことが、それを認められない・受け入れられないことなんだと思います。
じゃあ、子どもの頃には戻れないわけだから、それって一生納得できないのか、と言われるとわからない。
私自身もどうしていいのかわからないというのが、正直なところです。
神様を信じるか信じないかというのにも似ているのかもしれません。
神様は、昔も今も手をあわせること、拝むことをリアルでできるので、
昔はそうおもえてなかったことも、今感じることはできますから、
体感できる可能性はあるけれど、
昔に戻ることはできないので、昔の自分を納得させるって難しい。
でも、時間を何度も取って、昔の、ちいさい頃の自分と対話したり、
昔の自分に戻って感情を思い出して追体験していくことで納得していくしかないのかな。
そういう部分では、生まれ育った町に足を運ぶのは、
その土地の空気を吸い、身も心もそういうモードに戻していく効果があるような気がしています。
さて、明日は新学期最初の講義。
新しい顔ぶれを見て、テーマに沿って学んでいくイントロデュースの時間。
学生との対話が楽しみです。