私が常々考えていたことを、このところFBともだちのHさんがつらつら書かれているので、それに結構反応している。
が、彼女のペースは非常に速いので、情報がいっぱい入ってき過ぎで今の私には処理できない部分もある。
少しずつ、納得していきたい。
今回彼女が紹介してくれたのは、「当事者研究ネットワーク」。
当事者研究ネットワーク | 当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)
もともとは、統合失調症などの
精神障害がある方たちの
自助、自治の動きから
見出されてきた発想。でも、一人一人が、
自分の固有の生きづらさを
自分自身で、ともに、
研究をしていき、「自分の専門家になる」
という方向性は
人に理解されにくい
生きづらさを感じる人には
とっても力づけになると思うの。ちなみに、椋梨 雅紀子さんの
自分の守り育て講座や、
センスオブワンダー講座は、
まさに、自分を研究して、
自分の専門家になるために
うってつけの講座だなぁって思う。
精神障害というと「病気」という位置づけになって、
病気は治れば終わるものなのだけど、病気自体がその人の精神や性格と関与していることは往々にしてあるので、
人の生きづらさという点で行くと、それが病気であろうとなかろうと、
自分がその生きづらさを抱えてどう向き合っていくのかを研究する「自分の専門家になる」という視点が必要なことだと思っていた。
でも、それが研究されているとは知らなかった。
当事者研究として、精神障害の方々の自助、自治に使われていることも知らなかった。
そもそも生きづらさを持つ人の多くは心の病も経験していると思う。
自分じゃどうしようもなくなって、自己否定に陥る。
手術して悪いところを取れば治る類の病気ではないので、自分でもがくしかない。
この手の病気は、名前はついているものの、
状況は十人十色で、しかも見えないので他者からの助けの入り方はとても難しいように思う。
なので専門家が入ったとしても、
じっくり時間をかけながら、本人の意識が自分を許容し、自分の中に深く潜っていくことしか、生きづらさを解消する手立てはないのではないかと、私は思っている。
私は、うつや精神障害の病気の宣告はされていないが、
おそらくその周辺はうろうろしている。
過敏性腸症候群も自律神経失調症もそういう名前が診断についたが、
それは症状の結果的なもので、
私の敏感な精神とからだ、過去のアーリートラウマからの経験による性格形成が、今の生きづらさを作り上げているようには感じてきた。
そもそも感じたのは早い段階だったが、どう関与しているのかがわからなかった。
でも今は、仮説ではあるけれど、私が母のおなかに宿った時の感情から始まっているような気がしている。
ここに大丈夫だよと言ってあげることからはじまるのだろうか。
根はそこからはじまっているのだろうが、それをどう今の私はひもといてあげればいいのか、正直なところはわからない。
何を手放し、何を受け入れ生きていけばよいのだろうか。
昨年病気をした後に、毎日のように神様仏様の前で願っているのは「私は私だと開き直りたい」である。
自己を認めたい。認めなくとも受容したい。
その願いのベースには「安心したい」がある。
おそらく、母のおなかの中にいる時から、私は安心ができなかったと思うのだ。
私は生まれてきてもいいのだろうか?祝福されるのだろうか?
母に重荷を負わせるのではないか。
ずっとそう思ってきたような気がする。
十字架を自分で勝手に背負ってきた私は、
辛いことを自分に強いることで、「頑張っているから生きていていいよね」って自他ともに許しを乞うようなことをしてきたのではないか。
この呪縛から、どう逃れればいいのだろう?
私は幸せになりたいし、安心して生きていきたいのだ。
だけど、生きるための術として生まれる前からこうして処世術としてきた、自分に負荷を与えることを、どう転換すればいいのかわからない。