ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

小さな我ではなく、大きな我を生きる。

 

今日の坂爪さんのブログは、考えさせられるので貼っておく。

ibaya.hatenablog.com

小さな我ではなく、大きな我を生きる。


昨夜のツイキャスで「雑誌などでは愛されるための方法ばかりが紹介されるが、愛するための方法が紹介されることはない」という話をした。これは何も、愛に限った話ではない。どうすれば成功できるか、どうすれば収入が増えるか、どうすれば美しくなれるか、どうすればフォロワーの数が増えるか、など、全部同じことだと思う。これらは「自分のことばかりを考えている」という点で共通をしているように思う。私は思う。自分のことばかりを考えているひとが、真の意味で愛されることなどあるのだろうか。愛されるひととは、つまるところ「愛することができるひと」なのではないだろうか。

 

空海の話をした。多くの宗教が禁欲的であるなかで、密教は「人間だから我を捨て去ることも欲を捨て去ることもできない。だからこそ、どうせならば小さい我を生きるのではなく、大きい我を生きてみろ。小さい欲で満足をするのではなく、人類全体が幸福になるような、大きい欲を生きてみろ」的なことを言う。この、我欲に対して肯定的な密教が好きだという話をした。が、結局、密教もそれ以外の宗教も、つまるところは「小さい我ではなく、大きい我を生きろ」という点において共通しているのだと思う。自分にとらわれるのではなく、自分を一回消すことで、自分を一回越えることで、より大きな「人類全体の命」を生きることができるのだと、そのことによって自分が活きていくのだと、そのなかにこそ自由はあるのだと、そういうことを説いているように思う。

 

欲求不満とは、要するに「なにかをしてもらえなかった記憶の蓄積」なのだと思う。そして、欲求不満は「より多くを得ること」では埋まらないものだと思う。得ることではなく、自分から与えることによってそれは解消をするものだと思う。誰かに与えることを通じて、ああ、なんだ、それははじめから自分のなかにあったのだということを知る。しかし、それを知るためには「他者の存在」が必要になる。自分のことばかりを考えているうちは、自分の真価が発揮されることはない。あらゆるものの真価は、それを受け取ってくれる誰かによって与えられるものであり、芸術作品と呼ばれるものも「それを見てくれる鑑賞者がいることによって」はじめて、作品として完成をするのだと思う。

 自分を「個」として考えすぎるきらいが私にはある。
だから、自分を先ず、、と考えるあまり、「ちいさい我」となる。

誰かに与えることを通じて、ああ、なんだ、それははじめから自分のなかにあったのだということを知る。しかし、それを知るためには「他者の存在」が必要になる。自分のことばかりを考えているうちは、自分の真価が発揮されることはない。あらゆるものの真価は、それを受け取ってくれる誰かによって与えられるものであり、芸術作品と呼ばれるものも「それを見てくれる鑑賞者がいることによって」はじめて、作品として完成をするのだと思う。

 二度張りになってしまうけど、ほんとこれ。
他者に目を向けても自分がないことにはならない。
他者を含めて考えることで他に自分にgiveすることで自分と他者がつながる。
これを私の場合、自己犠牲にならぬようにやる必要がある。難しい~。
「与えよ、されば与えられん」なのだけど、自己犠牲にならぬためには、素直な自分の本心であることがマストだ。
ねじれない自分を見ていかねば。