ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

「どうにかしたい私」は自分の感情なのか?それよりも「決める」こと。

もやもやする。
朝目が覚めて、「今日の気分はどうかな。」と自分の身体の感覚を確かめる。
胸から上が少し冷えているので、再度お布団に潜り込む。
あったかい。そのまま温まるまで居ようと思って、
ぐずぐずと布団の中にいる。
これは結構気持ちがよい。

でもなんだかもやもやする。
なんだろう。

不調と言えば不調。
でも、じゃあどこかがはっきり痛いのかというと、そうでもない。
だけど、すっきりとはしていない。
だから、晴れないのだ。

すっきりしたいという思いがあるからだ。それはわかっている。
で、すっきりしない自分を責めてもいないと思ってるんだけど、
責めてるのだろうか?

決めればいいんだよね。

私は私に自信がない。
身体の状況にも自信がない。
だから「きょうはどうだろう?」ってびくびくしてる。
本当はどっちでもよいはずだ。
動いてみてから「なんかきついから、今日はねとこう」とか「意外といけるな」とかその時々で対応すればいいのにね。
私にとって身体はとても大切だから、身体を失うことを恐れてるからなんだろう。

とここまで書いて

とも子先生のブログにあった不平不満を言う人のパターン2つについて。

不平不満があっても、
いかにそれが不平不満か?を
プレゼンすることだけに勤しむ人と

不平不満があった時
今、この場から自分から不平不満が少しでも
減る方法を考える人と

2つのタイプに分かれるのだな、ということです。

 私は人に言う方ではないので後者かなと思っていたけど、
いかになぜなにがを、事細かく分析するのは私の癖で、
なんでかというと、本当はそれを解消したいからだ。
解消するには、それを観察する必要があると思っているから。
だけど私は、感情に寄りすぎる。結果的に前者になってるかも。

朝の状況の話を再度みてみると、
自分の感情や気分に寄りすぎる気がする。

自分の感情は大切だから、と思う反面、
「どうにかしたい私」が強く出過ぎるのだ。

「どうにかしたい私」という感情はやっぱり思考の私なのだろうか?
「それがなかったらどうしたいの?」を問うべきなのだろうか?

神井さんのブログにこんな言葉があった。

ものごとの受け取り方を変えたら

世界は楽しく、優しく、面白い。

 

日本は恵まれていて

誰と何をするかを選ぶことができる。

 

人生を自分で決めることができる。

 

 

・楽しむと決める。

・明るくいるようにする。

・常に希望のある者の味方をする。

 

すると必ず良い方に道がひらく。

 

前向きに模索すれば、

お金も人脈も経験すらもなくても

やる気やアイディアでカバーできる。

 

 

怒らないと決める。

ふてくされないと決める。

ムカつかないと決める。

うじうじしないと決める。

 

嫌な自分をやめる言葉を一日中

つぶやき続ける。

 

これを3日も続ければ

どれだけ嫌な自分をたくさんやって

いたかに気が付く。

 

それが自分をダメにしてきたこと

にも気がついて愕然とする。

 

そして嫌な自分を卒業していける。

 

 明るい方に向かうと自分で決める。

過去のカルマの話も別の記事にあり、そこでは過去のしがらみを手放す許す喪失、、とあったけれど、
そこが私の「どうにかしたい」とはつながっていないのだろう。
繋がっていないなら、考えたって仕方がない。

生きたい方向に、

行きたい方向に、
明るい方向に、
楽に、
生きたい。

そう決めよう。

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