ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

執着を手放す 2021.4.5

いつか売ろうと思っていた宝石たち。
でもどこに売るのがいいのかわからなくてもう30年経ってしまった。
FBともだちがネックレスを売ったというのを書いていたなと思い出し、
彼女に連絡をとってみた。
その方は金のネックレスだったそうで、
金だとある程度のところなら相場換算で買い取ってくれるのだそう。
わたしのは金ではないけどダイヤである。

元夫からもらったものだった。
捨ててしまおうかとも思ったこともあったが、
何かの足しになるかもと持っていたのだった。

ネットでいくつか見繕って写真を送ってみたが、
家に来るというのでやめた。
この手の話で家にあげていい話はきかないので、
躊躇していた。そんなときにチラシに入っていた出張鑑定会。
これだと思って行ってきた。

30年前の当初、指輪は90万、ネックレスは26万ほどの値だと聞いていた。
今はいいところ2、3万とのこと💧
一緒に持って行った叔母からもらったプラダのナイロン製バッグの方が
ちゃんと値がついた。
鑑定士さん曰く、結局ブランドなのだそう。
それも年浅。
まるで日本の物件みたいね。
フランスもののブランドは質がよく買い手もつくらしいので、
そこそこ高値で売れるというのも聞いた。
着物なんて全くどうしようもないそう。
私の大島紬は売らないからいいんだけど。

宝石売ろうと思っている方は、はやめにどうぞ。

納得いかないなら持って帰るという手もあったが、
30年も元夫からのものを持っているというのも
なんだかな、思いっきり執着だよなと思う気持ちもあって、
捨ててもいいと思っていたのなら、いくらか値が付くだけいいかと
それでも粘って50000円に。

実は行きたい資格の学び直し勉強会の講座があって、
16万は捻出したかったのだけど、遠く及ばず。。。
せっかく地元開催だし、タイミング的にもよかったのだけど、
私の時期じゃなかったのかな。

と、ちょっともやってはいるが、処分出来てすっきりもしている。
変な気持ち。

持って行く前は、すごく不安定な気持ちだった。
値が付かなかったらどうしようと思っていたのだろう。
思っていたよりも低かったが、
値はつき、叔母のバッグのおかげで(実はパチモンだと思っていたので値がついてびっくり)少しかさましもされた。
が、現実ってこんなものなのねというのをちゃんとみれたのはよかったのかも。

さて、私には何もなくなってしまった、という気持ちもある。
いざとなれば、の宝剣がボロボロにさびていたというわけで。

これからどうやっていきていくか。
いや、今までとあまり変わらないわけではあるけど、
生きていくって難しいわ。お金って必要ね。
執着したくないけど、ないと困るのがお金。

仕事も増やしつつあったけど、どうも合わないなというのも感じていて、
自分の棚卸をしながら仕切り直しをするかなー等々ぼんやり考える今日でした。
ふー。

幸運のピンクの長財布 2021.4.4

いよいよXデー。
その前が本当に毎日忙しく、毎日出かけていました。
買い物に、矯正に、もろもろ手続き。
特に役所関係は、本人以外だと何度も足を運ぶ必要があるものもあり、
自分のことだしという名目で、連れまわっておりました(笑)
コロナの心配なんてしてはいられません。

そんな中、息子が「お母ちゃん、今欲しいものはなにかある?」と聞くので、
マザーハウスの財布が欲しいと言いましたところ、
なんとプレゼントしてくれました。

なんて言ってたかな。記念なのか、お礼なのかよくわからなかったんだけど、
彼なりのけじめなのか、気持ちだったのでしょう。
父と母には欲しいものを渡したかったと。
彼がお金を出すと言っても、お祝いでいただいたお金です。
それはどうかと思う気持ちもありました。
また彼にとっては(私にとっても)安い金額ではありませんから、
一瞬躊躇もしたんですが、彼の気持ちを形にすることで本人が納得するならという思いもあって、受け取ることにしました。

その数日前に「財布が欲しいな。今のももう4年くらい経ったしな」と思っていたんです。サイトを見て大体買うならと絞り込んでもいました。
でも息子のことで物入りだし、とあきらめかけていて。
ちょうどその日は、一粒万倍日と天赦日と寅の日の3つが重なるスペシャルデーと言われている日。
その日にその話が出るということは、という直感も手伝いました。
一緒にお店に見に行って、あれこれ触って決めました。
基準は自分の気持ちがあがるもの。
それが満たされるものは一つしかありませんでした。

f:id:miww55:20210404221339j:image



ピンクのグラデーション。
これまでは持ち物は割とぱっきりした色が好きだったんですが、
この頃はそうでもありません。
それも変化かな。
まだ高校でたての子どもに大金払わせるのは忍びなく、
持っていた3000円のギフト券で緩和(笑)

このお財布ですが、まだおろしていません。
せっかくなので、善き日までたくさんお札を入れて、
お札の感触を財布に覚えさせておくという慣例を実施中。
5月末にお披露目予定です😊

さて夫へのプレゼントは、時間切れだったようです。
多分もう少し時間をかけて話をするのでしょう。
ここしばらく夫の体調もよくなく、彼らも一緒にどこかに行って話をするようなタイミングもありませんでしたから。
お先にいただいちゃいました。


Xデーの話はまた今度。長くなりそう。



準備準備 2021.3.30

息子の入学準備に、とにかくなんやかんや忙しい。息子ウイークです。
カウントダウンあと4日?

昨日は、現地に向かう新幹線とJRのチケットに、お洋服に、寮で必要なものをあれこれ調達にまちに。
時間を決めていたので、3時間の中で一気に処理していく感じで、足早に。
ちょっと疲れました。春休みだからなのか人も多い。宣言解除したからでしょうか。
あ、うちみたいなのもいるのでしょう。

カフェで一息着き、次はおともだち一家へのおせんべつを物色し、お宅まで渡しに。
先に商品券をいただいていたので、お返し方々でした。
保育園時代から中学まで一緒。高校は別だったのに、気づいたらまた遊んでる。
例のSくんは就職で埼玉に行くので、いよいよお別れ。

前の日うちに泊まっていたので、まちに出る途中まで一緒に歩きます。
「なんかさ、Sが社会人なんて信じられないねぇ」
「俺もそう思います」( ´艸`)
大丈夫だろうか。ある意味息子よりも心配💦


夕方からは私の弟と三人でお別れ会。
お通しが大トロというお店で息子「ぼく、大トロって初めて食べたかもしれん!」と。
いやそんなことはないと思いますが💦
お祝いもいただき、もう今は最高に楽しい時期だね〜。いいよね。

最後は、荷物送る用の段ボールをもらってタクシーで帰宅途中に、ふと目を上げると大きな満月🌕。
こんな日のことを、いつかしみじみ思い出すのかな。

・・・
てなことをしみじみ書きたかったのだけど、今夜は段ボール詰めに結局突き合わされ、現在2時43分。おかげで準備万端にはなりましたが。

さすがに休みます。


自由に 2021.3.28

”疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。”
というのは、私がお気に入りに入れているブログの毎回の冒頭の一文だけど、
もうこれが、私たちの日常の中で、1年以上も続いているのだなと思うと、
なんともやるせない気持ちになっている。

コロナにはなりたくない。
体力があまりないことを自認している自分には、かかった時の体自体のダメージはもちろんだけど、そこに輪をかけて心のダメージが大きそうだからだ。

今はまだ一生懸命手洗いやっているので、かかる時にはかかるのだろうし、
仕方がないが、これ以上外出をしないとか言ってられない状況だ。

仕事はできるだけ在宅ベースにしている。
これは、今回のコロナ禍を理由にしているけど、実は在宅の方が仕事がしやすいからだ。
自分のPCで大きな画面で仕事をする方がはかどる。
特にZOOMのようなオンライン会議ツールでやり取りする系の仕事であれば、
物理的に小さな部屋を借りているような組織だとやりにくいだろうなと思う。

コロナになりたくない理由は、まだある。
ひとつは受験生がいること。もう受験が終わったので過去形になった。よかった。
もうひとつは家族に基礎疾患者がいること。
これは結構大きい。
大きいが故に、これまでいろいろの出ごとにはびくびくしていた。

会食系のお誘いもあまりなかったし、そもそもあまり行く気もしていなかったので
心理的負担はなかったが、
卒業生を送り出す時のイベントだけは行こうと思っていた。
そして実際に行った。
そこで出たかみおしぼりがぱっさぱさだったので、
除菌シートを取り出して拭いたりしていた。一応対策。

今日は、息子の小学校時代のサッカーチームの子たちと監督のところに卒業&進路報告。久しぶりに会う子たちは大きくなっていた。
終わった後にファミレスでごはん。
受験生の母が終わった母たちは、その労をねぎらいながらこの一年の話を。
みんな頑張ったんだなぁとしみじみする。
子たちはほぼゲームに興じている。

そして、その中の一人、息子の幼馴染のSくんはまたうちにお泊りだ。

明日は弟と息子と3人で食事。
その前には息子の片道切符を買いに街に出る。

息子の大学からは「入寮までの2週間は、家族以外との会食やカラオケ等、感染リスクの高い行動を控えていただき・・云々」という文章がきている。

備えあれば患いなしはそうだ。基本的に私はそっちの人間ではある。
でも、どこまでそれをするのかというとはなはだ疑問。
精神の健康の維持のためには、ある程度の人との交流は必要になる。
それができない故で結果的に免疫低下だってありえる話だ。

出れば不安だし、出なければもんもんとする。
体調と相談をしながら、自分でできるだけの対応をして出るしかないのだろう。

文章に書いてしまうと、至極当たり前のことではあるが、
人の心は揺れるのである。

ツイッターにこんな投稿があった。


一大事ですよ。桜。
心だって大事です。

もしかかっちゃったら、相当嫌だけど、
嫌なのは、先出の理由だけじゃなくて、
実は世間の声が怖いから、が一番なのだろうと思う。


なんでこんな時に、なんて言われたくない。
自分でも、あの時やめておけばとか思いたくない。

そんな心配ばっかりで、この命の大切な時間を無駄に過ごすのが嫌だ。

それでなくても、息子が家を出るまでのカウントダウンは進んでいる。あと5日。

毎日を健やかに過ごしたい。にこやかに彼を送り出したい。
そして私は自由に書きたいし、自由に動きたい。


面会 2021.3.26

昨日は、息子が遠方に行くのでしばらく会えないからと、母の面会に。

母から息子へは入学祝。
お金の管理は私がしているので「お祝いやっとって」と母に言われたのだけど、
右から左にお金だけ渡すよりも、母から本人に気持ちも一緒に渡した方がお互いにいいように思い、母の荷物からのし袋を引っ張り出しお札を入れて、
先日の通院時にペンとともに渡しておいた。
たまにののし書きはリハビリにもなるはず。

先日の耳鼻科と補聴器屋さん行きのおかげで、よく聞こえるようになったようで、
ビニールカーテン越しでも楽し気な会話が響いてくる。

面会は1対1が原則なので、私は少し離れて彼らの様子を眺めていた。
お世話になっている職員さんが覗きに来て
「お母様はいつも穏やかだけど、今日は一段と目がお優しくなってますね~」と。
孫効果ってすごいですねという話をした(笑)

息子が進学で福岡を離れるので、という話をしていたからか、
時間を結構延長していただけた。20分強かな~。
次の組が居なかったというのもあるだろうけど。
f:id:miww55:20210327144140j:image
こんな写真も、厳密にするならばほんとは撮っちゃいけないんだろうけど、
十分に距離は取っているし、マスクも検温もしているし、
何より母の免疫力はアップしたことだろう😊から良しとしていただきたい。

みんなで自由にお花見に行ける日が来るといい。


母の通院 2021.3.22

母の耳の聞こえが悪くなってきたので、耳鼻科と補聴器屋さんに連れて行ってきた。

コロナ禍で、こちらは施設には入れないが、本人の通院だけは認めてもらえる。

今日の福岡の桜は満開。

母大喜び。

今日はピンポイントで気温が下がりかつ風もあって、体感的にも相当寒かった。
母は、真冬でもパジャマのような恰好で出てくるので、
先日の通院の時には口を酸っぱくして「冬用のズボンがあるでしょ。
こんな時のために買ったんだから履いてきてね」といって、
一度はいてきたのだけど、
今日はまたパジャマ的なやつ。

思うに、自分では着替えしにくいから、
改めて手を借りて脱ぎ着するのが嫌なのだろう。
そして中に居ると、外の寒さがわからないから、
「ま、車で移動だし」みたいな感覚でいるのだと思う。
基本的に、寒さには強い人だけど、抵抗力は落ちているから、
この寒暖差はあまり味合わせたくないなと思っていた。

本人の意思がどこまでなのかがわからない。
10分間のオンライン面会や一般面会だけではさりげなく聞けないのが悩ましい。

今日は耳鼻科でつまりを取ってもらい、快適になった後、
さらに補聴器やさんでクリーニングをし、詰まっていた部分の部品を変えたら、
驚くほど聞こえるようになったらしく
「聞こえます!」と珍しく高いトーンで答えていた。
基本的に喜怒哀楽はあまり出さない人なので、驚きと喜びがよっぽどだったのだろう。
帰りの車の中でも、「ああ、本当に綺麗ね。満開ね~」と喜んでいたので、
まあ寒いのもよしとしよう。(←因果関係はない)
外に出て花見をするわけではなし。

夫が桜が咲いているだろうところを通ってくれたので、
何ヶ所か集団で咲いているところや並木を見ることが出来た。
この下を車いすを押しながら、歩けたらもっと素敵なんだろうけれど。
それでも去年も今年も、見ることはできたから、それだけでもよかったのかもしれない。

お彼岸用に作ったおはぎも差し入れたら、「あら!」と
声が少しうわずったので、ちょっとときめいたのだろう。
部屋で食べるというので、本と一緒に紙袋に入れて渡した。

今日の母は、久しぶりに杖で歩いたが、
最初は調子がよく、私が手を取らなくても一人で歩いて診察室に入っていった。
が、
時間が経つと疲労がたまるようで、
補聴器屋さんに行く頃には随分私の手を握る力が強くなっていた。
息が上がっている。

久しぶりの杖歩行は、いいリハビリだ。
2,3ケ月に1回はこういう機会でもないと、耳どころか体中が弱る。

いろいろ気づいた、今回の母の病院行きだった。

今週か来週には、息子が対面面会に行く。
「福岡を出る前に一度お見舞い」という名のお祝いをいただきに行く会(笑)
お金と封筒は私が管理しているので、用意して「のしは自分で書いてね」といって渡した。
お互いに、おめでとうありがとうの気持ちが少しでも伝わる機会を。
こういうことしか考えつかないのだけど、地味にこういうことが大切な気がしている。
f:id:miww55:20210322232824j:image

 

桜のこの時期に 2021.3.20

f:id:miww55:20210321004822j:image

今年は東日本大震災から10年でした。
FBでは「思い出」として、
過去のその日に投稿したものが出てくるのですが、
3月11日はこの話題に関してのものが多く書かれています。
やはり思い出して書くことが多かったのかな。

インパクトは強調され、細部は徐々に風化する。
記憶ってそんなもののように思います。
だからこそ、記録にとどめたり、誰かとその思い出を改めて話すことって大事な気がします。

だからということではないけれど、
震災特集かなんかの番組をみながら、
夫と息子と話をしました。

東日本大震災の日は、ちょうど娘の中学の卒業の日でした。
式が終わって、みんなで写真も撮って、
帰宅してお昼ご飯を食べて、やっとほっとして座った頃でした。
リビングでは娘が早速、髪を染めていました(笑)

地震の知らせにリビングのテレビをつけていると、
次々にただことではない知らせが入ってきます。
津波が押し寄せる様子をリアルタイムで見た息子は、
怖いと私の横に座り体を寄せてきました。

その2年後くらいだったか、東北に行くご縁がありました。
その際の震災関係の企画で、出会った「キオクノキロク」を出された佐藤さん。
「キオクノキロク」は、震災にあった方々の日々の暮らしや、震災前震災後の写真集。
それを見せてもらったときに、私は衝撃を受けました。
報道でみてきたものとは違う記録がそこにはあったからです。
知っている気になっているけれど、そこで何が起きて皆がどう過ごしてきたのか、
私は何も知らなかったのだと思い、その写真集を送ってもらうことにしました。
これは子どもたちにも見せなくてはならないと思ったのでした。
私自身は、この時にいくつかの遺構を見て回っています。
またその後にも仙台に行く機会があり、別の場所にも連れて行ってもらいました。
毎回思ったのは、まだなにも戻ってきてはいないということでした。

その後、娘が山形の人と付き合うことになり、彼のご実家にお世話になって2年。
成人式の前撮りをするというので、家族で仙台・山形に向かいました。
その際、せっかくだから仙台で震災がどういうものだったのかを
家族にも体験してもらいたいと、前出の佐藤さんにお願いして、いくつかの場所につれていってもらったのです。
当時のそのままになっている小学校跡は絶句というしかありません。
その地を訪れた方々からのたくさんのメッセージも残されていました。
当時は海水浴場として松原と家屋が並んでいたという荒浜という漁村は、堤防しかない野原になっていました。
一角に建てられた小屋で、そこに家があったという方々から直接お話を伺いました。
昔の写真をみながらお話されることと、今自分がみているものと、報道でみていたものが全くリンクしない状況で、頭ではわかっている気がするけど心が追い付かない。
そんな思いだったように思います。

この時のことを思い出したと、息子が言いました。
「ぼくはあの時あそこに実際に行ってよかった。知れてよかった」というのです。
「実際に見ると、思っていたものとは全く違う」と。
彼は当時もうすぐ中学1年生という時期でした。
それまでは全く関心もなかったし、その時もそんなに関心を持っているようには見えなかったのですが、毎年この時期には震災のことをテレビでもみるし、それなりに思うことがあったのでしょう。
その時には言葉にならなくても、後から思うことはたくさんあります。
あの時、企画してよかったなとつくづく思いました。

話はもっとさかのぼって、16年前の西方沖地震のことになりました。
息子は当時2歳なので、ほぼ記憶はないそうで。
そうかぁ。娘は9歳だったから、覚えてるかな。
福岡は地震がない街だと信じ切って長年生きてきた私でしたが、
16年前に起こったこの地震で、その自信は木っ端みじんになりました(しゃれではありません)。
春分の日のお休みで、家族でかしいかえん(レジャーランド)に行く途中の車中でした。川筋を走っていると、車が蛇行するんです。数年前に高速道路でその経験があった私は「又パンク?」と思いました(高速ではパンクでした。怖かった)。
が、他の車も止まり、電線がゆらゆらと揺れている。
これは車が揺れているのではなく、地面が揺れているのだと知りました。

揺れが収まったので一旦家にかえってみると、本棚の一番上にあった息子の五月人形が絨毯の上にコロンと落ちているくらいで、何も被害はない。
それを確認して、安心してかしいかえんに。

行く途中にマリンメッセでは陶器市があっていて、後処理にバタバタされていたのをみかけ、またブロック塀が壊れているのもみたり、意外と被害があっているのもみました。福ビルのガラス窓が結構割れていたのが衝撃的。

かしいかえんには結構人もいましたが、さすがに遊具はストップ。
携帯もパンクしているようで、こちらから親戚に「大丈夫だよ」と伝えようと電話するもつながらず。
しかたないねとのんきに遊んで帰ったら、被害がどんどん明らかになっていってました。
保育園友達の多い警固地域のマンションは扉が開かないとか、マンションにひびが入ったりとか結構大変な状況に。
うちの弟のアパートも、結局この地震がもとで(壁にひび、お風呂にひびも入り)結局立ち退きになったんですよね。
亡くなった方は1人と奇跡的ではありました。

そんなことを思い出し、夫とあれこれ当時のことを息子に教えるという時間になりました。

この数年地震だけでなく、毎年大きな台風がきたり、
大型の災害は場所を問わずにやってきてもおかしくないという認識になっています。
夏に大きな台風が来た時に用意した防災グッズやリュックは、そのままにしてあります。
もう半年以上たったから、食料や水の見直しをしないといけないかな。

家族で話をしてから数日、今日また東北で地震、そして津波注意報が出されました。
ちょうど娘に、こちらの桜の写真を送ろうとしていた時で、写真の代わりに「地震、大丈夫?」と連絡。娘はショッピングモールの中のお店で働いています。
「まだお店にいた。だいじょうぶ。」という連絡にほっとして。
後から本人から電話が入りましたが、横揺れが酷く、みんなでお店の真ん中に集まって避難していたそうです。エレベーターもストップしていたとか。
でも無事で何より。

心が揺らぐことは多々あれど、
できることを精一杯その時にするしかないのだろう
ということしか言えないなと思います。
せめても人災にならないように、学ぶべきこと考えるべきことをやる。
そして、自分はどう生きたいのかを考えることに行きつくのでしょう。

3月になぜかこういうことが続くのは、
やっぱり何かこの時期に考えなさいということなのだろうと
思うのです。

f:id:miww55:20210321004751j:image