ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

モヤモヤの正体 2019.5.1

f:id:miww55:20190502005431j:plain


昨日、学生や卒業生たちとの話で、納得した部分もとてもあったのだけど、違和感もあって、それが何なのかを考えていた。

私は、「マイノリティを理解したい、理解してほしい」という思いが強い。

昨日は「死ぬな」「生き残れ」「切り捨てる」「上に上がる」「できる人できない人」「稼げる人稼げない人」というワードがよく出てきた。
これらの言葉は、利他心があることが前提だ。そして利他は、自分軸で生きることが前提だ。
と、私は思っている。

そう思っていながらも、上記の言葉に引っかかる私が居る。

以前よりは気にならなくなってはいる。以前はこれらの言葉は地雷のような時があった。今はそこまではないが、聞くと胸が痛くなる部分がある。

私の理想は、「早く行きたければ、一人で行け。遠くまで行きたければみんなで行け。」の後者の部分。

誰かが先頭に立って動く必要がある場合もあるだろう。
でも組織としてチームとして何かを実現するために生きていく時には、
みんなでということを考える必要があると思う。
同じく目指す目的のために、多くの人を巻き込みその人たちの力を借りて、お互いが力を合わせて達成する、そういうフェーズが必要だと思っている。

後者を考える時に、上にあげた言葉らとの世界観がどうも合致しない気がするのだ。
効率化、コスト意識。
それが自分のモチベーションになる人は確かに仕事もできると思う。
そういう動き方ができれば、気持ちいいだろうし、無駄も省ける。
社会の役にも立つと思う。
そうなりたいと思う。
だけど、そうできない人は価値がないのだろうか?

そう、私は、特に人を扱う場合にいい悪い的に二極で語るのが、どうにも苦手なのだ。
いいことを語る分にはいいと思う。
そういう生産的な人になれるといいなと思う。
でも、それは恵まれた人だ。努力は絶対的にしているだろう。
環境の整え方も考えているだろう。
こう書くと、ひがみに聞こえてしまうかもしれないけど、
してないだけでしょと言われるかもしれないけど、
人にはいろんな事情や状況があって、
そこに至れない人もいる。
正直なところ、今の学生たちが「考えたことがない考えることができない」ところに陥っているのは、社会の環境のせいであることが大きいと私は思っている。
その個体のせいではないことを、責められてもきついなと思う。
私でいうと、身体が弱いことはずっと幼少の頃からのネックだった。
それは何かしら私の保身故からでてきたものだったかもしれないが、
人波に頑張ろうとしても、持たない体を持つ人はどうすればいいのだろうか?
努力が足りないと言われたらそうかもしれない。
ただ、それは身体の強い人には、理解できない部分だ。

人は自分の体験体感経験でしか物が判断できない。
慮ることはできても、本当のところで理解はできないだろう。
でもそれは承知で、他人の痛みや感情、思いを尊重したい。

そんな風に思うのは、私自身を自分でマイノリティだと感じているからなのだろうと思う。
大きな病気を何か持っているわけではない。虚弱で敏感な体を持っているだけだ。

この辺のことは、このところあまり考えなくなっていたのだけど、
昨日の話の中で、出てきた言葉に反応している自分をみるに、やはり自分は消化していないんだなと思った。

私ができることって、私サイズしかない。
それはわかるようになった。

私は、こうあるべき、こう在りたいと思う世界が大きい。
頑張る人がむげにされない社会を目指している。

だが、これを「そうでしょ、ねえみんな」と声高に言っても、誰もみてくれない。
そうなるように仕向ける仕掛けをすること、システムを作ること、流れを作ることが必要なのだ。
それが難しい。
そしてそこが私が苦手とするところだ。

私はこうなったらいいなのゴールイメージは持ち合わせているが、
そうなるまでの、道のりの仕掛けづくりが下手だ。
他者とブレストしてると、アイデアを思いつくことは多い。
でもそれを組み立てるのは苦手。
だから、私のような人は、他者が必要なのだ。

私が自分の能力を活かして生きようとする時、
そこにはそれを活かすことを能力として持っている人と一緒に、
同じ目的をもって力を合わせる場が必要となる。

そういう体制が取れるならば、
早くは行けないが、遠くまで行きたいところに行くことができる。

そういうコミュニケーションが取れるまち、社会、未来でありたい。
そうしたい。

おそらく、コスト管理ができ、生産的で、キャリア意識があって、身体が強い人が、そんな私の手助けをしてくれるような役を担ってくれたら、と思うが、
その人たちは一人で行く方が早いのなら、私のような存在は切り捨てる方が身軽に行けてしまうので、そもそもこれらの世界は違うところに存在すべきなのかもしれないとも思う。
早く行きたい人たちで組むこともありかもだ。
でも、そうなるとそれ以外の人たちはあがいてしまう。
頑張りたくない人は頑張りたくないという意志があるから、置いていってもいいのかもしれないが、頑張りたいと思ってやっている人は連れて行きたい。救われるべきだと私はやっぱり思ってしまう。おそらく自分がそうだからだ。私は切り捨てられたくないから。

であるならば、個々を活かしあうことをコーディネートする存在が必要なのかもしれない。

頑張りたい、目指すところに進みたい、でも何か足りない人たちが、お互いを補完し合い、生きていくことができる道はないのだろうか?
今までのキャリアの積み方は一つの方法だけど、
もっと人間らしく、どんな人でも思いがある人ならそれなりのそれぞれの個性が尊重されて生きていける、そんな世界にはなれないのだろうか?

人が人につぶされない世界は、望めないのだろうか?

今日のもやもやの正体は、こういうことだったのでした。
一言でいうと、「マイノリティは望んじゃいけないのか?」というモヤモヤした思いでした。
目指すところが違うのかな?