ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

妄想で再会した祖父と父のはなし。2019.4.26

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何となく自分の中にはモヤモヤがあるのだが、それを言葉にまとめるのが難しくてしばらく放置していた。
そのうちそのモヤモヤが体に蔓延し始めて、昨日の朝、腹痛としてあらわれた。
この日は仕事に行かなきゃだったので、お薬飲んで、仕事に。この日はバタバタだったので、身体に気持ちがいかず、そこまでひどくもならなかった。
が、これは要注意で、このやり方でため込んできたので、このまま放置はしちゃいけない。「私に目をむけてない!」って、私の身体が怒り出す。
そろそろ向き合わなきゃというタイミングだ。
丁度、一つこれは顕在的にもやっとしていたものが落ち着いたタイミングでもあったので、好機だ!と思った。

足が冷えていたので、お布団の中に入って、目をつむり、きいろちゃんに話しかける。
ふとでてきたのは、先日の佐世保への旅で一番最後に行った、近くの宮地嶽さんの光景だった。
そこから始めろということなのか。
宮地嶽さんにお参りしているおじいちゃんの姿が見える。

お参りを終えたおじいちゃんと、階段を降りていく。
おじいちゃんになんでここに来たのかを聞かなくちゃと思いながら、別の頭の中では「過去だから、聞いたって答えはない」と思う私が居る。
でも、ふと思う。
これは過去でもあり、今でもあるのだ。

今、私のイメージでは、きいろちゃんが白い服を着て私と手をつなぎ、嬉しそうに一緒に階段を降りている。おじいちゃんと3人だ。
寂しくない。なんだかとても楽しくなった。

なんでここに来たのかは、どうでもよくなった。
おじいちゃんは一人できていたのかもしれない。そうじゃないかもしれない。
でも、さっきの後ろ姿から、いつも参っているような印象を受けた。それでいいと思った。

以上は全く私の妄想だ。イメージなんてそんなものだろう。
それが正しいのかどうかわからない。
でもそうだと信じることができるならば、それでいいとおもうのならいいじゃんか、みたいな思いがある。
これはこの1年で培った思い。

イメージの中のおじいちゃんに話しかける。
宮地嶽さんの階段を降りて行ってる最中だ。
「おじいちゃんは、今しあわせ?」

一瞬固まったおじいちゃんは「なんばいいよっとか~」と照れてはぐらかす。
まあ、それがこたえなのだろう。
耳がちょっと赤くなっている。
大正生まれには、ドストレートな問いをしてしまった。

歩いてうちに戻った。
おじいちゃんは、庭にいるのが好きだ。
庭が広いというのもあるが、いつも何やらやっている。おうちの修繕をしている時もある。
でも、一番よくしているのは、庭木の手入れだ。じか上の木々もあるが、おじいちゃんが手を良くかけているのはさつきの盆栽だ。なんでこんなに必要なのというくらい鉢がたくさんある。
さつきはつつじの小さい版で、字のごとく5月過ぎに咲く。つつじよりちょっと遅れて咲く。
つつじよりもさつきは手がかかるのだということは、おじいちゃんがなくなってから初めて知った。おじいちゃんが手をかけなかったから、さつきは咲かなかった。

私の庭にいるおじいちゃんのイメージは、だからなのか、赤い花をつけたさつきとともにある。5月くらいしか咲かないのに。

おじいちゃんに「ねえ、パパにはあった?」と聞いてみた。
声を立てずにおじいちゃんは首を振った。
なんでだろう。
おじいちゃんが亡くなって16年以上たつのに、
先に亡くなった子どもにあえてないなんて。悲しいことだ。
それこそ私の妄想であってほしいこと。
だから神様にお願いした。「あの親子を会わせてください。」

そうしたら、父がやってきて「おとうさん!」とおじいちゃんに走り寄る。
抱き合う二人。親子はちょっと若くなっていた。
父がちょっと子どもに戻っていて、おじいちゃんは若いお父さんだった。
二人とも泣いていた。
そのシーンをみて、私もいっぱい泣いていた(これを打ちながらも泣いてる)。

なんでこんなに泣けてしまうのだろう。
単なる私のイメージであり妄想なのに。

泣いている私を溶け合った二人が包み込んでくれる。今回は父の割合が大きい。
ししがみさまがだいだらぼっちになったような感じの、透き通った大きな流れで私を包み込んでくれていて、またそれを感じると泣けてくるのだった。

父の修行や戦いは少し段階が変わったのかもしれないと思った。
もしかしたら、成仏への道を本当に得たのかもしれないとも思う。そうだといいな。

布団から出て、一旦この妄想モードは終了。

この後、お風呂に入った時に、思い出してみた。
なぜ祖父と父だったのだろう。
祖母じゃなく。
思ったのは、私は大きな父性に抱かれたかったのだ、ということだ。
私の周りには男性が何人かいてくれるが、
父性や男性からの愛に飢えているのかもなと思った。
今更ながらに、男性から熱烈なアプローチされたいとは決して思わないが、
優しい愛でくるまれたいとは思っている。

私が欲していたのは、それだったのかとなんとなくわかり、
少しもやが晴れた気がした。
そういう愛情をえることは、私もこの年齢となり現世では物理的に難しくもあるが、
イメージの中で父や祖父が与えてくれるものがあると知ったから、
何となく少し落ち着いた。
直感と、それを分析する論理、正確に言うと直感と直感をつなげるむすびを、
時間を越えてやっている感じだ。
私のこうありたいという思いを物差しとして。

そういえば、今日はふと、以前私が父のことを書いた文章のことを思い出していたのだった。なんでそれを思い出したのか。
何かが動いてる。そんな気がする。


今日は全くの妄想のお話でした。
妄想だけど、作り話100%かどうかは神仏のみぞ知る。
妄想したから真実になることもあるかもしれないのだから、
イメージしたから、形にして行けた事例はいくらでもある。
思いは、イメージしたら実現すると誰かが言っていたが、それは今世だけとは限らないのではないかな。
そうであれば、とてもおもしろい。
過去だって変えていける。
歴史は変わらないけど、自分の中の意識はかわるかもしれない。
そうすれば、今も未来も変わる可能性があるのだ。
変えるためにやっているわけではないけど、
一生懸命、こっちがいい、と自分がいいと思う方向を選んで歩いている。