ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

叔母との会話 2019.4.15

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午前中に整骨院に行き、ぎっくり腰を診ていただいた。
K先生は、過去私のぎっくり腰を治してくださっている中ではぴか一なので、
こういう時にはほんとに頼りになる。

今回は右の臀部がぴきっときたのだが、足裏~ふくらはぎ~首~肩~肩甲骨~右ひじあたりを調整してもらい、いっぱいタネシールを貼られる。今日は20くらい貼られたような。
(一種のツボ療法?種子療法と言います。花のタネ~ひなげし?のシールを貼るとこれが結構効くのです。貼ったら動かなかったところが動いたりして。)

小一時間ほど調整してもらって、随分痛みが引いた気がする。
局部的に来る痛みはあるが、そのために周辺かちかちになっていたところがほぐれてきて、全体的に柔らかくなってきた。ほっ。
痛みが落ち着くまでは毎日通院。
私は、身体を緊張させてしまう癖もあるので、何かの時には一旦専門家に診ていただいた方が、スムーズに調整できる。
即対応いただける方々が近くにいらっしゃるのは、ありがたいことだ。

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さて、佐世保記の続きを。

佐世保に行こうと思ったきっかけは、前回も書いたけど叔父の施設の面談、
そして目的は、自分の産土神様へのおまいりだったが、目的のもうひとつは、叔母に会うことだった。
叔母は私の亡き父の妹で、私とは17歳離れている。
昔から叔母と私はよく似ていると言われていて、
顔や体格や体質も似ている。彼女をみていると、こういう風に老いるのかと思えるので、いいロールモデルになってくれている。

最近はなかなか会えないし、たまに電話で話をするくらいだったので、
何かを話すため、というのはなかったが、立ち寄りたいと連絡を取ってみた。
すると叔母から「ちょうどよかった!」と弾んだ声での返事が。
その日はちょうど叔父が検査入院の日で、不在なのだそうだ。
「年に1回あるかないかやったけん、ちょうどよかった!外でご飯食べよう~」。
ということで、叔母と二人で晩御飯を食べることになった。

タイミングというのは、そうあるべきだからそうなるのだろう。

考えてみれば、叔母と二人で食事をすることは、初めてだった。
美味しい和食に日本酒を前にしてだったが、
とにかく「しゃべって聞く」のに集中しすぎて、飲食がついていかないw

近況からはじまり、元実家のこと、祖父母のこと、父のこと、親戚のこと。
知っていることも、知らないこともあった。
叔母と私は、会話をしながら、答え合わせをするように、話を確認していった。
それは、ジグソーパズルのピースを埋めるような感じでもあった。

特に祖父母の性格や行動についての話を、叔母から聞くのは面白かった。
私は初孫だったからか、叔母いわく、とにかく二人の可愛がりようはなかったらしい。
子ども心には叔母が言うような「可愛がられた」という印象はそうないのだが、
祖父母はベタベタするようなかわいがり方をしない人たちであることは
私も重々承知しているので、「温かく見守り、たまには干渉的に接する」のが彼らの愛し方だったのだろうということは、今回叔母と話をしていて再認識したところだ。

それにしても、なんとわたしたちの家の血は濃いのだろうか。
昔も親戚の集まりをすれば、そんな話は出ていたが、
「愛ゆえの干渉」を、そういう言葉で話していた気がする。
昔はどこもそうだと思っていた。私はそこしか知らないので、比較することはできないのだが、大人になっていろんな家族や親せきの在り方を聞くに及び、
うちは他のところよりも、家族・親戚の距離がものすごく近いのだなと思う。

それを仕切っていたのは、祖父母だ。
その末っ子である叔母は、また一心にその「愛ゆえの干渉」を人一倍浴びた人。
そんな叔母の視点から聞くうちの一族の話は、また新鮮であった。
叔母は「嫌だった」「早く出たかった」とはいうものの、
祖父母に対して「こうだったから仕方なかったのよね」とかの解釈をしない。
それが、彼女と話をしていて感心したひとつだった。

私は小さい頃から、自分で相手の状況を優先して「仕方ない」と慮り、
自分の本心である「もっと私の気持ちを尊重してほしい」というのを押しつぶして、
でも押しつぶしている本心は消えはしないので、
自分が自分に与えるストレスで苦しんでいたのだが、
叔母は、それとは少し違う耐え方をしているようだった。
私以上のストレスを浴び、その半分は流していたのだろう。

私と似ている叔母の話しの中から聞く、私と違う生き方処し方は、私にとって「なるほど!」だった。
方法論を得た感覚もあるのだが、それ以上に「孤独でない感じ」を感じさせてもらえた。
当たり前ながらに、いろんな先祖がいて、彼らの人生の営みから私の命は始まっている。そして、私と同じように、私以上に理不尽を身に浴びている叔母がポジティブに生きていてくれる。このことは私に大きな力をくれた。

今回私は、叔母からもらったオレンジトパーズの指輪をつけていた。
これは祖母のもの。

祖母の指輪が私のところに来た経緯はこちらに↓

miww55.hatenablog.com


その日、叔母も私も偶然なのかオレンジの服を身につけていた。
私は指輪を外し、叔母と私の間に置く。
オレンジネットワーク( ´∀` )
祖母が会話に入りたそうでw

そういうのも、偶然といえばそれまでだけど、
面白いね、ご縁だねっていえば、そこから物語が始まりそうにも思える。

親戚や先祖の話になり、
以前父が存命中に、先祖供養のために先祖の名前を探し家系図を作ったことがあったのだが、その家系図は紛失していた。祖父母がなくなった後家を処分する時に叔父と叔母で随分さがしたらしいがなく、うちにもなく。
という話までは祖父母がなくなった後の時点で共有していたのだが、

叔母から「その後、私さ、気になっとったけん、家系図作る人に聞いて、戸籍謄本を取って作ったっちゃん。」という言葉を聞く。
「えええええ~!ほんとに?」
「見に来る?」
という流れで、その後叔母のうちに移動し、家系図チェック。
結果、私から見て、ひいひいひいじいさんとばあさんまでのものが発覚した。
曽々々祖父母というのか。
19人の先祖の存在、続柄と18人の名前がわかった。

想像していなかった展開。

叔母とは結局5時間半ほどしゃべっていた。
叔父がいたらこんな時間は取れなかっただろう。

先祖供養にまつわるもろもろや叔母の思いも聞いた。
私たちは私たちの立場でできることをするしかない。

どんな信仰をして、どんな風に祈っていくかは、
個人の思い次第。
叔母も私も、なんらか感じるセンサーは持ち合わせており、
いろんな出会いやタイミングに逆らわずに、
受け止めて生きることを意識しはじめてからは、
いろんなことがつながってくるように感じている。

今回の私の佐世保訪問で、うまくタイミングがあって
叔母といろんな話ができる時間が確保されたことで、
シェアできたことや明らかになったことがある。
父が亡くなった理由についての納得感や現状理解をする選択肢も増えて、
叔母と関わりある方の話を聞くと、つながりがあるようにも思えた。

いろんなことが明らかになっていく。それは本当かどうかはわからなくとも、
私たち生きている人たちが、それをどう思い、
自分の生き方にどうつなげていくのか、
それを考えるための選択肢はいろいろあってよいと思う。
その中で、自分が選び生きることを学べばいいのかなと思う。
こんな風に命を生きることが、先祖供養にもなるような気がした。