実は、今日は体調が落ちている。
おなかの調子も。。
この1ケ月ほど便秘気味だったのだが、今日は下してしまった。
当然食欲もないので、固形物ではないプロテインやヨーグルト、
甘酒を飲んだりしている。
お腹はなってきたので、すいてはいそうだけど、あまり食べたいとは思わない。
寒気がするので、腰にカイロを貼ってみた。
ビタミンEが切れているので、冷えが強くなっているのかもなと思う。
病院からのビタミンE、オーダーミスなのか、足りなくなってしまった。
「13日分ください」→「13回分ね」となった可能性あり。
今更言っても仕方ないので、今度外出する際に、薬局をみてみようとは思っている。
更に今日の体調の話を続ける。
朝起きると、右手がしびれていた。
この頃右手(というか腕)はよくしびれる感じがある。
寝る時の体制が良くないのかなと思ったりしているが、
いまいち原因はわからない。
今日はその腕のしびれがとても気になって、
「これって何かの病気の可能性もあるな」と思い出し、検索してみたり。
これって、連鎖してるんじゃ。
不安定な時って、シーソーのように不安な思いが思いを呼んで、勝手に片方重くなってゆく。
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からだの調子が悪いのには、メンタルに理由があることが多い。
その予兆は感じていた。
この数日、また私の前に顕在化してきた課題に気づき、
やるしかないなと着手していたのだけど、
見たくない自分をやっぱり感じていたのだと思う。
うまくいかない現状を見て、どうすればうまくいくのだろうと考え、
答えが出ず、思いつくことをするしかないと開き直ったところだったが、
自分の中で抵抗する自分もまだいて、
みじめな自分をみたくなかったり、
(これは自分でみじめだと思っているんだろうと、書きながら思ったけど)
従来の考え方で、あがいている自分がいる。
今日は、ウガンドゥブチの日。
願いを取り下げる日だと言われています。
どうして、願い事を取り下げるのか。『願い』とは、
「叶っていないと信じたい気持ち」
だからです。『豊かになりたい』は、
いま豊かだと信じたくない気持ち。
『愛されたい』は、
いま愛されてないと信じたい気持ち。
『もっと欲しい』は、
いま十分じゃないと信じたい気持ち。相変わらず僕ら、おかしなことをしてますね(笑)
叶っていないと信じたいその気持ちを、
一度『ほどく』ことの大切さを、
古来の沖縄の先祖たちは知っていたようです。あなたがいま握りしめてる
「叶っていないと信じたいこと(願い)」を、
今日だけでも取り下げてみませんか?ある。
に目を向けたら、
あるもんです。この素晴らしい日々に感謝を。
昨日友人と話をしている途中に気づいたこと。
「これまで気づいていなかったけど、いろんな人に支えられて助けられて生きてきたんだな」と。
いや、気づいてはいた。でも今回は、不意にそのことに感謝の思いが沸き立ってきたのだった。
「愛されている」と感じるのもこの感じなのだろうか。
行動や言葉から感じるものとは違うところで、感じるもの気づくことがある。
思い方、考え方、モノの見方を変えることで、ああそうかと思うこと、あれ、これってって気づくことがある。
引用したさとうみつろうさんの記事では、
『願い』とは、
「叶っていないと信じたい気持ち」
『豊かになりたい』は、
いま豊かだと信じたくない気持ち。
『愛されたい』は、
いま愛されてないと信じたい気持ち。
『もっと欲しい』は、
いま十分じゃないと信じたい気持ち。
結局、今の「~したい」を否定しているわけですね。
「叶っていないよ。」
「今豊かじゃないよ。」
「今愛されてないよ。」
「今十分じゃないよ。」
って。
本当にそう思っている感じているから、そういう言葉が出るし、
だから、自分の欲として「欲しいです」って願うわけだけど、
それがだめだって話でもなくて、
今日は、そういう風にガチっと思い込んでる自分の思いを、
「まあまあ、弛めてみたら?」という日のようだ。
弛めてみたら、
「あれ?これはあるね」ってあることがみえてくる。
自分が希望している「こんなのほしい」ってのはないかもしれない。
でも、自分の中にある確かなもの。
例えば経験とか、思いとか、感情とかでもいい。
それはあると思えるし、みえていなかったものも実はみえてなかっただけで、
ああ、そういえばこんなことも、とか思い出したりすることもあるわけで。
note.mu
ミユさんの、今日の記事にあった文章がとてもよかった。
わたしはいつも、もし自分が地球外知的生命体で、砂漠のような暗い星に住む半物質の幽霊みたいな身体を持ったエイリアンだとして、同じ星の同種の生命体たちからずっと、あるおとぎ話をテレパシーで聞かされているという設定で想像を巡らせる。(細かい設定に矛盾がいろいろあるのには目をつぶって・・)
そのおとぎ話とは、この広い宇宙の何処かに「ちきゅう」という場所があって、そこは光と色とにあふれていて、温度があって、木があり、花があり、
続きは長くなるのでブログを見に行ってほしいのですが、
ファンタジーだ。妄想といってもいいのだろう。
見る目を「今人間として生きている自分」じゃないところに置くと、
アトラクションを味わっているような気持ちになれる。
今の目の前の世界に感動できないとしたら、それは受け取る側が過去を引きずっているからだ。同じわたしたちの感性で、設定を変えるとこんなにも違って見えるのだから・・・!
(中略)
それが本当かどうかなんて、まったく重要じゃないんだと思う。
もし自由に考えてよいのだとしたら、もし、こうだったら、もし、ああだったら、わたしは何を思うだろう!と思うだけで人の感性は目を覚ます。人は本を読んでいて、その話がフィクションだと知っていても涙を流す。
その人の思考ではフィクションのままでも、感性では本当の世界になる。
だから、自分が何を感じるのかは、自分の好きにできるんだ。世界をどう見るか、それは自分の自由にできる。
いつの間にか忘れてしまっていた、自由な想像力。
みなさんは、使っていますか。
どんな想像だって、それを心にリアルに映し出したとき、それによって世界が違って見えるなら、それはファンタジーが魔法になる瞬間だと思う。
もし今すぐ使える魔法があるとしたら、このことだとわたしは思う。
それを使うと、世界が輝いて見えるだなんて、本物の魔法だ!
ミユさんがかいてあることと、さとうさんが書いてあることは、
リンクするような気がする。
さとうさんのいう”「ある」に目を向ける”は、
あるかどうかわからなくても、あると設定して考えるということだ。
ミユさんは、その方法としてファンタジーの世界にいるように設定を変えると、
わかりやすく、今の自分を俯瞰してみることができるというものだろう。
私はこのことが頭で理解ができているんだけど、
からだに不調が出ているということは、
身体や心では「願い」にしがみついているのかもしれない。
まあちょっと意識的に、弛めて、
からだにごめんね~とよしよしをします。
ご飯作ります。