ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

ヒントは目の前にやってくる~2019.1.20

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大切にしたいのは、楽しいと思うこと。心がくすっと笑うもの。


このところ、本当によく思うのは、
求めているもののヒントやこたえは、目の前にやってくるのだなということ。
引き寄せともいうのだろうが、
その実、それらは実は身近にあるもので、自分の意識が言語化イメージ化というカタチになったことで、気づきやすくなっただけなのかもしれないとも思う。

例えば妊娠を意識した途端に、今まで通っていた道の産婦人科の看板がやたら目についたり、ベビーカーや親子がこんなにも町中に多いというのに気がついたりする。そういうことだと思う。
周りが変わったわけではなくて、自分の意識が向いたのだろう。

以前からそのことには気づいていたけど、この1ケ月くらい、
自分が気づいたり、関心の出てきたものに関する情報が目に入るようになってきた。

昨日一昨日書いたブログに関するものも、たくさん目にする。

ザッピングのように見ていたのだけど、ちょっとまとめてみようと思う。

1つめ。みーさんのブログより。

miporintama.hatenablog.com

自分を大切に、に関するもの。
私も自分に厳しい自覚があるが、その分他者には倍厳しいことを言ったりしたりしているのか、そりゃいかんと思った次第。
以前、4年前ほどに人に厳しいという評をされたことがあって、その時は逆だと思っていた。自分には厳しいけど人には優しいと。
全部が全部ではないのだろうが、どっちにしても「自分には厳しい」ことは変わってないので、そこは改めたい。

自分に優しくすることは自分を大切に扱ってあげることなんですね。

そしたら魂が喜ぶんです。『嬉しいね、幸せだね、』って。

自分に優しくしてあげると、泣いて感激してくれる時さえあります。

そんな時「ああ、こんなに優しくしてほしかったんだな。」と感じます。

 


自分に厳しくしないと、成長できない幸せになれないって思いこんでいる節が、私にはある。
厳しくしなくても、私は成長できるし、幸せになれる。
それを体感したい。

2つめ。ともえさんのブログより。

tomoe8.hatenablog.com

無意識に周りに合わせて
本心じゃない発言や行動をしている人が多いような
気がします。

それがネガティブな波長だったら
悩んでる自分や、不満ばっかの自分を
いつまでも続けなければならないですよね?
愚痴や悪口を言うのが楽しいのならそれでいいの
ですが、本当は心のどこかで苦しくなったりして
いませんか?

ならば、
意識的に楽しそうな方に波長を合わせてみても
いいんじゃない?

 これは昨日のAちゃんとの会話にもリンクすること。
私は他者にあわせて、行動するのはあまりないけど、
他者の話をじっと聞いて、世間ではそうしないと評価されなんだなと思う節がある。
まあそこで迎合して悪口言うのと結局おんなじことになるか。言わないだけで。
そういうのが嫌で脱したいなら、
その場にいるのをやめるか、違う意見(自分の本心)を言うか、楽しい方を選ぶか。
ミックス策もあると思う。

私の場合は、そういう悪口大会は嫌いなので、次からはその場に誘われるのを拒否る傾向にあるが、
そうするとお付き合いがなくなってしまうので、難しいところ。
ネガティブパワーの人は少人数なので、大勢で会わなければ意外といい話ができる人もいるので、あまり拒否ってもいかんなと思ってるところではある。

少し話がずれたけど、「意識的に楽しそうな方に波長を向ける」は、ネガティブ思考の強い私には必要な意識だなと感じている。

3つめ。ミユさんのブログ(note)より。

note.mu

執着との付き合い方で、私も思っていたこと。

自分では執着だと思っていないことだけど、
意外と執着化している考え方ってあるもので。

私は、自分の思いを手放せないことが多い。どんな思いでも自分から出てきたものは愛おしく、特にそれが他者から否定されたり、自分が侵害されそうになると俄然守りたくなる、我を通したくなる。
そういう部分においては、私は自分を母的に守る態勢に入るのだ。
ただ状況的にそうなる前は、結構自分をぞんざいに扱っているよう(↼ここ自覚がない)。

生きる上で、何かをあきらめないといけないことはある。
でも、「こうしたい」という思いはだからと言って消さなくてもいい。
消したくない。
これは沖縄に行った帰りの飛行機の中でたどり着いた結論だった。
これについては、ミユさんも書かれているように、外からは誰からもわからなくていい。

まとめてみると、わたしのしていたことは、

①「赤ちゃんが欲しい」という自分を、自分の中でだけ勝手に聖人の位置づけにする(他者に、我を聖人だと思いたまへ~などと要求するということではない・・)

②その赤ちゃんを望む自分を、自分の中にどれだけ長く居ても良いとし、居る間はちゃんと付き合い切る、という扱いをする

③その赤ちゃんを望む自分と、密かに共にある感覚でいる

というだけだった。これによって、妊娠を望む自分に支配されていた頃には考えられないほど気楽になったのだ。赤ちゃんを望む自分を大事に抱えながらも、新たに仕事を始め、夢中になり、特に周囲に気付かれることもないまま、無理なく楽しく自分の生活を創ってこれたように思う

 彼女の場合は、赤ちゃんが欲しいという思いだけど、「私がこうしたい」という思いを持つ場合も同じだと思う。
「こんな思いを持つなんて私はだめだ」とか「こんな思いは辛いから排除したい」と思えば思うほど、それはこじれて執着になりやすい気がする。
だけど、わたしの「こうしたい」は、私から出てきた思いなのだから、それがたとえ拗らせた思いからでてきたことであったとしても、そういう思いを抱いて、こどものように、(ミユさんいわくホッカイロのように)あったかい気持ちでいる。それを中に抱きながら、現実社会を生きることは、自分の中に空虚感をもっていきるよりも、豊かに安心して生きていけるような気がしている。

いかなる自分も、消そうとなどしなくていいのだと思う。その執着を持つに至った理由が自分の中にあるのだから。
その自分をひとりにしないで、その自分をケアする立場の視点を持ち、理解し、抱きしめ、居場所を与え、そばに居て、密かに共にある。
執着する自分に、追い出そうとするのではなく、こうして静かで地に足をつけた力強い愛を注いでよいのだと思う。きっと、楽な自分が息づいていることを感じられると思う。

一言でいうと「自分の気持ちを認める」になるのだろうが、これは自分にそういう気持ちを持って持て余してきた経験があり、それをクリアしてきた人しかわからない言葉だと思う。
私もやっとここまできて、たくさんの経験をして、思いを言語化イメージ化しながらわかってきたことだ。

これが昨年末から気になっている「当事者研究」ともリンクする気がしている。

自分の未処理の思いとどうつきあっていくのか。これが今の一番の私のやっていくことだなと思っている。
仕事もしたいなー。

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