ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

痛みは自分が光を放つもとになる大切なもの

今日受け取ったメルマガから、目に入った言葉を書き留めておきます。
===
痛みを避けて生きることに


人間は思考を使い、人生を使い

快適で安全なことが幸せかのように言われてるけど

そんなの嘘です。

一人ひとりがずっと抱えてきた痛みが

内側で統合された時に

それが世界を照らす光になって放たれるってことを

知って欲しい。

その光を放って生きることが

本当の幸せなんだって

気づいて欲しい。
===

これを読んだ時に、胸がキュンっと痛くなりました。
私が抱えている痛みが、反応したのかもしれません。

内側で統合。
言葉はなんとなくわかるけれど、
しっくり全身で理解まではいかない現状。
でもちょっとはわかる気がする。
先日遠隔ヒーリングを受け取っている時=瞑想状態にある時に、
外から自分の身体が光りに包まれている状態をイメージし、
次に自分の中から光が放たれているのもイメージした。
身体の中があたたかく、手足も温かく、それらのエネルギーが入ったり、出たり、ということがなんとなくだけど体感できた。

ここに書いてある「光」とそれが同じものかどうかはわからないけれど、
私が、それがここちよく感じ、そうすることを望むならば、
私の周りにはきっと光はあふれているのだろうと思う。

それを受け取れる時も出せる時も、
ちょっと調子が出なくて受け取りにくかったり感じなかったり、
出していることを体感できないこともあってるのかもしれない。
でも、きっとそれは「在る」のだと思う。
その辺は何となくだけど(このフレーズ多すぎるけどw)
納得できるようにはなってきた。

「痛みは自分が光を放つもとになる大切なもの」。
であるならば、それを痛みから違うエネルギーに転換をさせることを、
私の内側はするのだ。
きっとその用意はされつつある。
私がそれをGOしさえすれば、
ボタンはおされるのだろう。
でも怖いんだ。
痛みがあれだけ嫌なくせに、
怖さの方が嫌で、痛みを出すことを選んでしまう。

恐れと向き合っていかないと、
いつまでも怖いままだ。
恐れを頂いたままの私を、受け入れながら、見ながら、
動いていくしかないのだろう。
そうやって少しずつ「大丈夫なわたし」を積み上げていくしかない。

小さな砂山をスコップで積み上げているみたいな気がしているけど、
それは幻想で、その砂は光の粒かもしれない。

決してなくならない、私の中にも、私の外にもある
小さな光の粒。
しあわせの元になる小さな光の粒。

すでに私は、しあわせなんだな。