ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

瀬戸内寂聴「いのち」を読了。

瀬戸内寂聴さんの最後の長編小説らしい「いのち」を読了した。

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本人もおっしゃっているけど、御年95歳。
ここまで長いものはもう書けないだろうと。
とはいえ、現在でも年間200万枚の原稿を書かれるというのは驚きだ。

現存されている方の名前は変えてあるが、私小説だ。
彼女自身が腰、胆のう、心臓を病み、闘病生活から生還するにあたり、いのち・生きる事死ぬことを考え、この95年の間に関わった作家たちの生きざま死にざまを思い出していく。後半は親交の深かった河野多恵子、大庭みな子と(そしてその夫たちと)の関わりが描かれている。描かれているのは本人が生きていたら「それはプライバシーの侵害でしょう」と言いそうなことも暴露してあるが、そういうことも含めてあるからこそ「いのち」って何だろう、生きるってなんだろうと考えさせられる一冊だった。

瀬戸内さんも含め河野さん、大庭さんは「性」を赤裸々に文学上に広げた方々だったようだ。瀬戸内さんが「花芯」で相当世間に叩かれたらしいというのはなぜか知っていた。女性がまず自分の性を文字ででも書くというのは、当時はタブー中のタブーだったかと思う。瀬戸内さん曰く、少し後に文学界に出られた大庭さんは性を扱われても評価されたらしい。
その他のお二人を「「性」を赤裸々に文学上に広げた方々だったようだ」と書いたのは、私が全く瀬戸内さん以外の方を存ぜず(文学少女ではなかったので^^;)、また私が本を読んでいたのは、この次の次の時代くらいだったから(と言い訳しておく)。
だって、新しい人として曽野綾子さん、佐藤愛子さんの名前がでているんだもの。彼女たちは私が高校生の時にはもう名の知れた作家だった。
山田詠美さん位になると、やっとわかるけれど。

いろんな方がいらっしゃる(というのも、この小説には多くの方々の名前が出てくる)が、皆時代を自分で切り開いてこられた方で、恐れ多いとすら思う人たちが、一人の人間としてきっと苦悩もしながら、生きてきたのだなというのがこの小説からはわかるわけで。

それだけに95歳という瀬戸内さんの人生は、51歳の私に比べてもとてもとても長い。あと44年も生きると、本人と周りの環境は随分と変わっていくのだろう。というくらいしか想像できない。

それでも、彼女の文章は、年齢差のある私にもよくわかる。
河野さん、大庭さんとのやりとりは20代の頃のものもあれば、80代90代の時のものもあるようだが、妙に新鮮に感じられる。

実はこの本は、入院している母のために買ったものだった。
母が読み終え、2回目の途中の時に、私が読了した寂聴さんの秘書、瀬尾まなほさんの本と交換して読み始めた。
たまたま見かけた寂聴さんと瀬尾さんの掛け合いの記事が面白く、クリスマスに子どもたちへの本を買う際に一緒にこの2冊も求めたのだった。母は弟の趣味もあって時代劇ものばかり読んでいたので、たまにはと思って。

母も意外とハマったようで、他の書籍も読みたいという依頼がきたので、昨日アマゾンで文庫本を4,5冊注文した。

私はというと、この本を入手した際には、自分の病状がかなり重く、読めるのだろうかと思っていた。内容によっては読了難しいかもしれないと思っていた。あまりにも体がきつく、「いのち」とか「死」とかいう言葉に自分を重ねる時期が続いていたからだ。
実際、最初の方は、岡本太郎さんやパートナーのとし子さんやら亡くなっていった方の死の状態が描かれることが多かった。が、意外と読み進めていけた。

久しぶりに、次を次をと心をはやらせるよう読める小説だった。
何度も同じことが出てくるきらいはあるが、あれはわざとなのだろうか?

しばらくは瀬戸内作品にハマりそうだ。

やっぱり「花芯」も読まなくちゃだろうし、この際河野、大庭作品にも触れるのかな~とか思うこの頃。女性を生きる上では、性を外すことは逆に不自然だしなぁとか、つらつら考えている。