ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

「なんで私が行かなきゃいけないの?」

昨日の弟とのやり取りが、意外と自分の中で根強いなと思ったので、書いてみる。

昨日Happy日記に書いたこれ。

 ・母の転院の件で、弟と話をしていて、弟が私が来なくてもいいので娘は絶対というのに驚く。彼曰く、「着替えは俺はわからん。女じゃないと。」。
「それは偏見で、わたしや娘も母の着替えを手伝うことはない。洋服を出して自分でやってもらう(その方が本人のやる気を引き出すことにもなる)。付き添いは一人だってできるのだ。」と伝える。
彼にやらせていなかったなと反省した。

類似の事項が今日あった。

今日は、娘息子夫が母の見舞いに行くという。
ここで私も行くと言えば、皆納得するのだろうなと思いつつ、
娘からも「みんな一緒だから一緒に行った方がよいのでは?」と言われたけれど。
逆に心がざわざわしたので、行かなかった。

顕在意識的に、”病院に見舞いに行くということ自体が私に負担がかかる”と認識していることもあるが、今回はどっちかというと、他者が私をどう見ているか、に私のフォーカスが当たっている。

「家族が私が母の病院に行くことで安心する(だろう)」
「母が安心する(だろう)」
「私が行くことで、家族が「私が行くことを当然だと思ってほしくない」」
「私が行くことを、母に当然だと思ってほしくない」

「私が行く(動くこと)を、家族・母に当然と思ってほしくない!」
その奥には「感謝されたい?」

はっきりすっきりはしないがどうもそのようだ。

ちょうど、叔父の施設からの封書も来ていた。私が叔父の後見人をやっているからだ。
これをみてもざわざわする。
母の荷が軽くなるようにと、いろいろすったもんだあって罵倒されて病みそうになってでも頑張った母の弟関係の騒動。
母が見ないようにし始めたので、私が弟と一緒に動き、彼の身辺の整理を全部行った。大変だったが、そうしないとどうしようもなかった。
知的障害と身体の障害のある叔父。現在叔父は施設で穏やかに暮らしている。
お金の管理もしてもらえるし、彼の年金の中で暮らせている。昨年から施設も建て替わり、新しいお部屋で快適さは以前より増しているはずだと思っている。
母が入院するちょっと前、朝倉が大水になった時に、「福岡が大変だって」と母に叔父から連絡があったと母が言っていた。
そのくらいの元気もあるようだ。

2ケ月に1回の、通帳のコピー及び現金出納の確認書にサインをして送り返す。
今の私の作業はこのくらいなので、さして重いわけでもない。

が、弟や母、家族の私を見る目と、いろんな家族のこざこざを一手に引き受けてきたという自負の私が今葛藤しているらしい。

「私がやってきたことをちゃんと認めてよ」
「大変だったことをわかってよ」
「誰のおかげで今こうみんな落ち着けてるんだよ!」
「なんでわたしばかりしなきゃいけないの?」

そういう私の叫びが出てきた。

私は、自分ができることならと、つい手を伸ばしてしまう癖がある。
できると思っているし、さっとやってしまえば簡単に終わるじゃんと思っているから、
ごちゃごちゃしたくない。さっと終わらせられるなら、もうやっちゃおうと思う。その方がみんな幸せだと思っている。

本当にそうなのだろうか?
母は、このことに感謝しているのだろうか?
私は、勝手に彼女から問題を奪い去っただけなのじゃないのか?
母の問題でもなかったが、私の問題でもなかった。

一方で「私がすべきって決まってるわけでもない」とも実は思ってるから、
「褒めてほしい」
「感謝してほしい」という気持ちも湧く。

めんどくさいな~、私。

これからは、自分が本当にしたいと思わないことはしないでおこう。
そうすれば、こんな風に思わなくても済む。
せざるを得ないことは、粛々とやって、「認めてほしい感謝してほしい」が出てきたら、それを言おう。
もしくは「やりたくない」と言おう。


その方が私の心的にはすっきりしそうだ。

===

まだモヤモヤしているので追記。

認めてほしい、感謝してほしい、感謝されるべきだ!
という声は、正直恥ずかしい。
そのドヤさはなんなの?

ジャッジしている私が居る。
そして、他者に関与されないと自分が納得しない自分が居る。

ジャッジする自分については、
前言通り、自分が本当にしたい、納得してそう思うものしかしない、という形なら、自分の気持ちはすっきりするだろう。

「やってもいいしできる」というのが一番やっかいそう。
で「自分がやったほうが状況が丸く収まりそう」というのが、
今まで私が踏んできたわだちだ。
実際丸く収まってきたものもある。でも私の中でわだかまりがあるものも多い。
子ども会とか自治会とかPTAとか、
やってわかったことも多いけど、すっきりしていないのは「なんで私なの?」が根本的にある。
この気持ちはどうすれば成仏するのだろう?

そういうことは、捨ててやらないでおければ一番ベストだ。
で、良ければ一番よいけれど、私がいつもの義侠心を出さないとしても、
例えば母の転院のための説明には、弟か私が行かなくてはいけない場合がどうしてもある。この件では私が出る場合がほとんどだったので、今回の数回分くらい弟に行かせても罰は当たらん、くらいに思っているが、それが回数を経て逆転したとしても「私は行きたくないから行きません」と言い切っていかないことができるのか?

そういうの無駄な労力のような気がして。
さっくり行って、サクッと終わらせて、おしまい。にする方が絶対楽そう。
そこに、他者(母や弟)に対し、恩を着せずにすんなりできる私になれるのか?

めんどくさいことはしたくないので、そうなれるに越したことはない。

そこが割り切れると生きやすいんだろうなぁと思う。
何にこだわっているのだ、私は。
誰に賞賛してもらいたいの?私は。