ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

動いてきた、2017年。

標題とは関係ないんですが、昨日お風呂に入っていると、ふと亡くなったおじいちゃんのイメージが。
おじいちゃんは、亡くなってからの方が私にとても近く見守ってくれている気がします。
おじいちゃん的には、危なっかしいんだろうね。

お風呂から上がって着替えて、ほーっとした時にも、おじいちゃんを感じます。
後ろあたりでそっとね。
なんかもう、嬉しくて寂しくて泣いちゃった。頭なでてくれるの。
「会いたいよ~」って声に出した。
「でも、そっちに行くのは早すぎるから、こっちの世界でやりたいことやれるように、サポートしてね」とお願いしました。

===
弱っているからでしょうか。
でも、これが私の脳内イメージだとしてもいいんです。
私にとって、これが真実で、心地よく自分を信じることができるものであれば、
私は信じるし、それを支えに生きていけるから。

巡禮記にいきはじめて、見えない世界の本当を学び、まだまだよくわかっていないことも多いけれど、よくわからない死や霊や神仏に対する怖さは、随分となくなってきました。
巡禮記はこちら。↓

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ここから語調チェンジ~。

巷ではびこる神仏に対する噂や伝聞は、それが正しいと刷り込まれていることが多い。例えば神仏にはお願いをしちゃいけないとか、感謝だけをしなさいとか。誰から聞いたのか私たちには「ちゃんと礼儀よくしないと神さま仏様に嫌われる」的な思いを持ってたりする。 でもそれって本当にそうなのか?
そもそも神仏はなんのためにいらっしゃるのかというと、人を救済するためだ。

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凡夫である私たちは、生きていくうえで持つ苦しみや欲と向き合い、自分の本当の望みを知り、その望む道を歩んでいけるように、ご神仏に頼りながら自分を紐解いていく。

ここには、世の中のしがらみや関係性はない。それでもわたしたちは、いつしか自分の本音をオブラートでくるんでいる。
それを引っ剥がし、裸の自分で祈ることを迫られる。
でも、それは本当は自分がやりたいことなのだ。裸の自分で私はこうだと、これが欲しいと言える私になりたくて、今年はこの流れに飛び込んだ。

厳島神社で祈り、
熊野で祈り、家族の供養もし、(父とのひょんな出会いもあり)
宮地嶽神社で祈り、
太宰府天満宮で祈り、
熊本の浮島神社で祈り、ここでは賢太郎さんにポートレート撮影してもらい、
氏神様の平尾八幡宮、平尾天満宮、山之神社、
福徳延命地蔵様で祈り、
21日(23日)参りもし、
東長寺で祈り、こちらでも一族の供養をし、
住吉神社で祈り、
猿田彦様にも祈った。

なんどもなんども。

仕事でも、
できる学びは取りに行った。
出せるものを出し、形にした。
LSPのアジアンMTG、練成会、
夢チャレの企画、合宿、
書くP、表P、SI。

ひとつひとつをやりきってきた。
不安や恐れと闘いながら、
そして後半はそれも少しづつ受け取りながら、
私の中の、やりたいや好きに沿って、
それを信じてやってきた。

怖さと対峙しながら、
私は私と向き合って、私を一生懸命理解しようとして、
やってきたんだ。

ひとつひとつが積み重なり、ここまで歩いてきた2017年。

正直、夫の病気、母の病気は身体に心に堪えた。
そして9月に一度壊れそうになった。(体は壊れた)

でも、それでも歯を食いしばって
生きてきて、
病気をして、たくさんのことがわかった。

しんどさに同調しないこと。
辛い悲しいは心が動きやすいけど、
それでも私の無邪気さを信じ切ること、
魂にとっては、嬉しい楽しいも悲しい苦しいも同じ魂の揺れだ。
であるならば、私は嬉しい楽しいを選びたい。
これはチャレンジだ。

自分の向かうベクトルは自分で決められる。
私は、一人で書くPをやっているのだ。
(仲間がほしいなぁ。。ぼそっ)


生き方の癖の書き換えは、正直言ってなかなかに難しい。
でも、私は決めたのだ。
絶対に、落ちない。
私は一人じゃない。
…そうだった。黄色ちゃんと二人だった。

うん。大丈夫。私は一人ではない。

黄色ちゃんと二人で、私が信じる道を進む。
しあわせになるんだもん。

ということで、自己肯定の旅、少しは進歩してます。
寂しくなくなってきたって、すごいこと。

私は私をいっぱい褒めて、生きていきます。

みんなの力を借りながら。

でも痛いのはやだ、やっぱりw



今年一年、皆様、お世話になりました。
2018年もよろしくお願いします。