ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

ひとつの感覚に集中する。

毎日自分の胃腸炎と向き合う日々。

FB友人の投稿で知ったこの記事にドキッとした。

■感度を上げる|ナリ心理学


 

自分が現実を見てどう思うか=自分自身が自分をどんな存在だと思っているか

こんな私はダメだと思うのか
まあそういう時もある、時が過ぎるのを待つかと思うのか。

私は前者だ。。。
何かやるべき方策があるのではと思い、思いを巡らすのは得意なのだが、
黙ってじっとしていることが苦手。
これって、自分を信じていないということなのだよね。
自己否定。
否定しているつもりはないけど、完璧に信頼しているわけでもない。
やっぱりからだが悪くなると、「もうなんで」「また?」とか思う。
この身体と付き合って51年。調子が良い時の方が少ない気がする。
でもそれは気のせいで、
よくよく考えてみれば、病気の記憶が強いだけで、多くの日々を毎日ちゃんと過ごせている。このことに目を向けずに、うまくいかない方ばかりに目を向けるのは、身体にしてみればいいがかりだ。
「私だってちゃんとしてるもんヽ(`Д´)ノプンプン うまくメンテしてないあんたがわるいんやろ~」とストライキでも起こしたくなるだろう。(←もしかしてマジにいまココ?)


このブログには、自己肯定するにはどうしたらいいのかが書かれていた。

ひとつの感覚に集中する。
     ↓
感度が高くなっていく
     ↓
自己否定が減っていく
     ↓
自己肯定が増えていく
     ↓
目の前の現実の受け取り方が変わっていく


なるほど。
ひとつの感覚とは、聴とか視とか手触りとか。
今でいうと、ヒーリングを受け取るなんてのも感覚を集中させないとできないことだ。

不安があったり、雑念があると、集中ができなくなる。
つい、あれこれと不安を解消することをやりたがる。
それはそれで安心には必要だけど、自分の感覚をおざなりにしがちになる傾向は否めない。

半年くらい前から、香りに自分のヒントがある気がして、結局ヤングリヴィングのオイルに落ち着いている。
私の鼻は感じやすいので、嫌な臭いも感知するが、その分いい香りもキャッチできる。
香りはイマジネーションを膨らませてくれるし、そこで羽を伸ばす私を赦してもくれる。
ここのところは、菌を抑えるためというのもあり、無印のディフィーザーでティー ツリーとローズゼラニウムを噴霧~。
気休めかもしれないけど、気持ちよく寝れる。

私が私にOKを出せるのが一番で、
これは体験や体感しかない気がする。
頭での理解もそこを助けるけど、頭理解だけではやっぱりからだからNGが来る。

自分の感覚は正直だ。
だから、それを信じた方がいい。
嫌なものはしない。
したいことはする。
自分の感覚は一体なにをめざしているの?
次はどうくるの?
ちょっぴり不安になるけど、基本的には面白がってしまう。
自分探検は、面白い。
知らない自分が山ほどいる。
そして忘れていた自分にも出会う。

昨日、上記の内容をノートに思いつくままに書いていて、
ふと「私には意地がある」という言葉が出てきた。

そうだったそうだった。
前のブログの記事で「正直に生きたい」も忘れていた言葉だったけど、
「意地を持っている」もそうだ。

ここ数年、この意地が出せていなかった。
自分に自信を失っていたからかな。

次の投稿で、今年の振り返りをしようと思うけど、
今年3月に熊野詣で初日で阿須賀神社でお参りしたことは「私のすぐヘタレる性格を治したい」ということだった。
今考えると「動くこと。ヘタレる暇なんかなくなるし、やったことは自信になるよ」と当時の私に言ってあげたい。

ま、動いたんですけどね。動くしかないと思っていたから、今年は年初から動いた。

途中めげた時に「あなたはこれだけ動いてきているのに、どうしてそんなに自信がないの?やってきたじゃないですか?」と言われ、「やってもやっても望む成果が出ない。認めてもらえない」と泣いていたけど、認めるのは人ではなく自分自身だったんだということが、この病気をして体感的にやっとわかった。

人に認められることは必要ではなく、私が私を認めないから人に認められないのだ、と。

私が今やっているのは、たとえて言えば玉ねぎの皮を何度もなんどもむく作業。
途中でいろんな経験をして皮だけじゃなく汚れがついたりもする。
なんどもなんども見つめ直して、それが汚れなのか皮なのか実なのかみながら、皮をむく。
私の玉ねぎの中にはなにがあるんだろう?
目にはみえないけど、きっと私がそこにいる。光がそこにある。
きっと既にもうあるから剥かなくても大丈夫なのだけど、でも触れたい。感じたい。

そんな思いで迎える年末。

明日は少しよくなるといいな。