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ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。

厳島での祈り+気づき②

miww55.hatenablog.com

この前の記事はこちら↑

厳島神社の本殿から出て、
海側に渡ったところにある境外の末社へ。
清盛神社。
この旅での私の一つのベンチマーク的な神社でした。

思ったより小さかったけれど、存在感がありました。

ここで須佐さんからのお言葉。
「千の祈りより、一つの自我」。
この言葉は清盛さまからのメッセージだとして、
一人ひとりその解釈は違うし、違っていいのだろう。
思いのままに生きていますかということを考えなさいということだと思う。
私の解釈は「お前は自分がどう生きると決めるのか」と問われているという意味に受け取った。
「祈ってばっかりいるけど、で、どうしたいの?何を決めるの?」って迫られているような…

結局ここでの祈りは、なんかしかっとしないものだった。
自分の中では祈りに自分の気持ちを綴り、間違いはないつもりでいるけど、祈ってるそばからなんか言葉が違う気がして、もやっとした。

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海側の道を歩く。
大鳥居は時間がないので今回は近くまで行けず。
フェリーの中の説明によると、この鳥居は海中に留められてはおらず、この鳥居の重さで立っているそう。ここにも賢人の知恵が。こういうところに私は妙に反応するw

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 さてさて、次は仏閣ゾーンに。大願寺へのお詣りです。
大きな大きな不動明王様にお詣り(不動明王様は撮影禁止だった~)。
不動明王さまは、大日如来さまがもっと庶民に近い存在として明王となられている姿。
本当は観音様なので優しい方らしいのだけど、「優しい顔ばかりしてても本音言わないでしょ」ってわざわざ憤怒の顔で現れてくださってるのだそう。

次に龍神様のところへ。
こちらの龍神様はブースっぽいところにいらっしゃる。大願寺の中央部分に自分の居場所をもってらっしゃる。なんだかこの周辺だけ空気感が違う。
そもそも水辺が近いからなのだろう。この下には水があふれている感じ。
このあたりはいろんな神様が混在されているが、それぞれが自然に在る感じが素敵だ。

f:id:miww55:20170113234705j:plainこの頃からもう何を祈ったり願ったりしたのかわからなくなってきているw
清盛神社で少しもやっとしたものの、龍神様にはストレートにお願いをしてきた。

そして本尊のべんざい天様のところに。もとは厳島神社にいらっしゃった
べんざいてん様が神仏分離令でこちらに来られたそう。薬師如来さまも本尊としていらっしゃる。
ここからは仏閣ブースで、人が多いため、ろうそくと線香を求め火をつけ祈るタイミングもあって、私の場所場所で書いていたメモも途切れがち。
べんざいてんさまは秘仏なので、お顔が見られず、残念。弘法大師さま作で八つの手があるものだそう。6月17日に行けば見れるそうですが、人が多いよねぇ(↼当たり前)
でもしっかりと、「私に女性としての仕事をちゃんとさせてください」と祈ってきました。
べんざいてん様が好きなのは、私にとって伝えたいことお願いしたいことが明確だからかもしれません。

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めらめらと燃える線香たち。護摩焚きではありませんが、いい感じだったのでパチリw

こちらは弘法大師様が開かれたお寺。弘法大師様もいらっしゃって、つくづくいい男だな~と思っていました(失礼ながらw)
とりあえずここで一旦おみくじを。
大吉!でもよくよく読むとそうでもないけれど、こう書いてありました。
「はじめは思うようにならないことも必ず成就します。いそがずあわてず信心しましょう」

ここまでで、結構頑張った感があったのだけど、ここからがディープゾーンらしい。
ということで、みんなでお茶休憩してから坂を上ります。
大聖院への道。こちらも弘法大師様が開かれたところだそう。
これまでが平地で結構道幅の広かったところを行っていたのに、
今度は山に向かっての坂道。川も流れていて風情があります。
でも今回は結構早歩きで歩くので、あまりのんびりな感じでもなく。
あ、でも途中で大きなお屋敷のお庭に白い花がぽつぽつと咲いているのを発見。梅かなぁ。春は見えないけどそこまで来ているのかな。

大きな仁王門をくぐり、あちこちの小さなこどもの羅漢さん??をみながら登っていきます。
可愛い子がたくさん!

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途中の鐘楼堂でひとりひとりゴーンと鐘つき。
いい音が響いて気持ちがよかった。鐘の音の振動ってすごい。体中に響きます。
ここでは、身体で感じろというか身体に落とすことが命題かな。

こちらのお寺は雰囲気的に修行中~という感じがします。
実際に修行が行われているのかわからないけど、宿坊的な。。。

十一面観音様にもお会いしました。お久し振りです。
両親が健在の頃はよく愛宕神社の十一面観音様にお詣りをしていましたので、
懐かしいという感じがいっぱいに広がりました。私の後ろの父親が反応?笑

こちらの観音様はお顔が人間っぽく、誰かに似ているなぁと思ったのです。お顔は出てくるのですが、どこで出会った方だったかな。

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こんな現代アート的なものもあちこちにあります。見方によっていろんな解釈ができる現代アートって、実は仏閣とも通じるものがあるのですね。私は現代アートについては理解がある方だと思っていたけど、この視点はなかった。新しい発見!

施無畏堂。せむいというのは、観世音菩薩さまの別称だそう。相手におそれを抱かせずに救うこと。観音さまはそういう優しい面をお持ちです。手前の金色の方よりも奥に観音様がいらっしゃいます。

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「人には"魔”というものがある。でも"魔”ってよくわからないよね。ここでは"魔”がよくわかりません。私にとって"魔”とは何でしょうか?と尋ねてみてください。自分がついやってしまうこと、払いたいこと、自己卑下とか…」
と須佐さんに促されながら、その通りに手を合わせながらつぶやきます。

この手の問答は、はじめは全く自分の中にこたえがなくても、仏様に伺いぶつぶついうことで、いろんな考えが降りてきます。
いや、降りてくるというよりも、自分の中にあるものに気づくことが多いのです。
仏様にぶつぶつと話をしながら、「私の”魔”ってこれだよな」とつくづく感じることがあります。そしてなんかそういえば、これもあったあれもあったとザクザクと出てくるw
魔は払うものもあるけれど、「そういう私ですが」とそのまま神仏にすがることもできる。すがったまま生きるということもできるんだというのも、なんとなくリアルな感じで受け止めることができます。

さて大詰め。
観音堂へ。(多分)
須佐さんが、「時間をかけて自分のペースで祈ってください」といわれます。
モヤモヤしていた思いもなんとなく収まっていたものの、再度こちらに来た思いと悩んでいること、モヤモヤした思いをそのままお伝えしながら、、、

ーーーここまでの途中の祈りの中で、自分のミッションやビジョンははっきりしていることは再確認できてました。
そこに至るまでに何をどうすればいいのかわからなくなってきて、それが今回の旅で一番お尋ねしたいことでもありました。

でも、ふと思いました。
「今の自分とミッション、ビジョンが明確であれば、どう行くべきかなんてあまりに気にしなくていいのではないか」と。
「後はよろしくお願いしますと、必ず自分はここに行くんだと思っていれば大丈夫じゃないか」と。

この気づきには、ちょっと雷に打たれたようなところがありました。
だって、私は自分を信じることができていなかったから。
一歩一歩ちゃんと固めていかないとてっぺんにたどり着けないと思っていたんです。
自分を信じることができなければ、この「間」をゆだねる事はできない訳です。だから、この考えがふと出てきた時には、驚きました。
「私は委ねてもいいやと思えるようになっている!!!」
これは驚きでした。

これまで私は自分というものが信じられなかった。
自分というより自分の身体に対しての大きな不信感があったのです。
頭ではわかっていたんです。自分を信じる事が大事だって。でもそれができないのは、自分のからだ(健康)に自信がなかったから。

いつも私の気持ちや目標を崩すのは私の健康でした。
でもそれは自分がそうしていることにも気づいていました。
だけど、どうすればいいのかがわからなかった。
だから何度も考えたし、何度もカウンセリングを受けたりしたけど、
自己否定は外れなかった。

でも、ここ1年の動きの中で、からだの悲鳴を受け止めて、自分を観ようと決めたのです。
動きの始まりは、丁度1年前の事でした。
1年前の成人式の日だから、ちょうど本当に1年前になります。
私は覚悟を決めました。というより、決めざるを得ませんでした。
「このままじゃ死ぬ」と感覚的に感じた、いや思ったという方が近い。
それで、この日丁度うかがっていた櫛田さんに、「お願いですから、とにかく健康をください」とそれは必死で祈りました。
すると、すぐに体の拒否反応は静まりました。
ここで私は初めて、神仏に必死に本心で頼むと聞いてくれることを知ります。
そして、そのことと、私自身が体を持つ人間で在り、この体とともに生きていくしかないんだということを体感的に知ることにもなりました(若干今思えばが入ってますが)。
それでもう覚悟を持って(というより、本能的に)自分を縛っていた社会のしがらみを一旦外し、会社を辞めることを決め(これは大変勇気のいる事でした。)、信仰によって自分の人生を見直す決意をした時でもありました。

今思えば、櫛田さんは清盛さまが通われた神社でした。
数年前、初めて行った巡禮記のお詣りが櫛田神社東長寺で、弘法大師様の話、清盛さまの話が満載のお詣りでした。
あれが始まりでした。ああこうしてつながってきたんだなぁとちょっと感慨深かった。

今、自分の自己否定がなくなったかというと、そこまではないのかもしれません。
でも、自分を愛でるということがちょっとだけわかってきたところでもあったのです。それは昨年ちょっとずつやってきた自分開きの成果かな。
ここにきて、ずとんとそれが決まった、ハマった感じです。ーーーー

ということで、ここでの気づきは、
「今の自分とミッション、ビジョンを固めて、あとは委ねること。自分に、神仏に、相手に、環境に。」
これは実は、仕事上でも出てきていて、わかっていたことでした。
私が今大切に思っている仕事は、本当に気づきの宝庫で、これは私のミッションやビジョンともつながっていることだから、直接的に出てくるのでしょう。
私にとってはとてもわかりやすい。これはすぐこんがらがる私のために、わかりやすくなってるんだわ。

観音堂では、ダライラマ14世が開眼したという東南アジア風なキラキラな弥勒菩薩さまがいらっしゃって、その方のお顔が、今回初めてご一緒させていただいたあいりさんのお顔に似ているなぁととても思ったのも、私にとってはなぜか印象深いできごと。

最後に愛染明王様へのお詣り。
愛染明王様は、神仏の中で唯一「だって好きになっちゃったんだもん」をOKとされる方。不倫や不貞を認めるというよりは、そういう枠で自分が開けないことの方が罪悪だと思われているのかなと感じます。
自分がタブーだと思っていることは、自分を鎖でしばること、自分を勝手に罰したり、自分が自由になること、自己愛を否定することにつながるような気がしています。
だからここでもブツブツとお詣り。
もしかしたら初告白かもと思ったけど、
でも、これも数年前の東長寺愛染明王様にはお詣りした記憶があって、多分この時の祈りと同じこと祈ってる、、はず。

さてやっと1クール、といったところで、おみくじ。
小吉です。
「このみくじにあうひとは、はじめ思いこと叶いにくく、急がず心静かに時を待てば
後には 神仏のご加護ありて 幸せの路開かれる」

その前に引いたおみくじと同じことだ。。

まだまだ道は途中なのね、と思いつつも、この道は正しいんだなと思えるだけでもありがたいと思ったことでした。うまくできてるー。

さて、帰路はまた自分の中でドラマがあったのですが、それはまた番外編で。
とりあえずは、これで厳島への祈りの旅は一旦終了。
お疲れ様でした、私。